ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

ひょっこりと...

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忙しかった仕事が一段落して、仕事部屋にごちゃごちゃに積まれた本や雑誌をなんとかしなくては、なんて気持ちになっていた。
床に積んであるのはアルバや週刊ゴルフダイジェストなどのゴルフ雑誌...これらは以前仕事をした関係でずっと送られて来るもの。
パーゴルフも今年始めまでは送られて来たが、見限られたのか春から来なくなった(笑)。
(それに比べるとダイジェストは以前ずっと仕事していたとは言え、最近5年くらいは全く仕事をしていないのに律儀に送られ続けている)
部屋中の本箱には以前やった単行本や資料の本などがぎっしりと並んでいる...がそれらを見たり使う事は最近は少なくなった。
そろそろ整理する潮時なんだろう。

そんな気持ちで本の山や本箱をひっくり返していたら出て来たのが、この山と渓谷社の新書判のシリーズ。
このシリーズの表紙のイラストは何十枚描いただろうか...
このシリーズも山溪の仕事も、その担当だった編集者達が退職した後、今では全く縁が無くなってしまった。

...美大にも行ってないのに独学で絵を描き始めたのが19歳の時、新聞広告でイラストレーター募集と言うのに応募して広告代理店に入り、ラフ描きやカット描きを少しやって23歳でフリーになった。
はじめは広告のイラストを描いていたが(結構大きな仕事もしていた)、資生堂の仕事で電通の担当者と喧嘩をしてから広告イラストに嫌気がさして、雑誌や新聞のイラストの仕事を始めた...その中で山溪の仕事は20代半ばから20年以上続いていたメインの仕事だった。
ここの編集者達は同世代の好人物の山男が多く、仕事の付き合い以上に酒飲みや旅行や冒険の体験などを一緒に楽しんだ「仲間」と言う感覚だった。

ちょうどゴルフの仕事を始める頃、山溪本誌で一人の可愛い女性の新人編集者が担当になった。
最初に会うなり「私、ファンなんです」と言われて驚いた(その後女性からそんな事言われたのは1回もない!)。
詳しく聞くと、「私が中学で山岳部に入った時に山と渓谷(本誌)を読んでいて、そこのエッセイのカットが好きだったんです」。
...つまり、その中学生だった女の子が高校でも山岳部を続け、大学でも山岳部に入り、卒業して山と渓谷者に入社して、中学生の時見ていた私の担当者になった、というのだ....驚くと言うか呆れると言うか運命と言うか、その間私がずっと山と渓谷の仕事を続けていて、彼女が又それを読み続けていたと言う事に素直に感動した。
その話はもっと後日談があって、その後その女性は結婚して退職...子供を産んで、その手が離れた時に又バイトで山溪の仕事をして、また私の担当になった...「なんかあなたの人生を一緒に歩いてるみたいだね」なんて言った事があった。

しかし山溪の仕事は、(挿絵を描いた)本文を書いていた著名な山男達が何人も山や冒険の事故で死んで行ったり、山溪を支えていた季刊誌「スキーヤー」がスキー人気の衰退と共に売れなくなって行き、山溪自体の経営が厳しくなって行くと少なくなって行った。
友人だった編集者が早期退職などで結局みな山溪を去って行き、最も親しかった「将来山溪を背負うだろう」と言われた才能ある編集者は肺癌で30代の若さでこの世を去ってしまった。

今はもう本社の場所も移り、誰も知り合いは居なくなった山と渓谷社だけど、自分にとって青春を仲間の様な編集者達と同時に生きた特別な出版社であったと思っている。
挿絵を描いた本誌はもう残っていないけど、当時の仕事がこんな単行本の表紙として何十冊も残っているとそんな想い出が蘇って来る。

栄枯盛衰、諸行無常の思いが又自分の目を覚まさせてくれる。
ゴルフを始めてから山と渓谷社の編集者達にゴルフダイジェスト社を紹介して編集者同士の付き合いが始まり、山溪内にもゴルフブームを巻き起こした私は、彼等が今もゴルフを楽しんでくれている事を切に願っている。
あの山男達こそ、ゴルフの真の喜びを知る最高のゴルファー達だと思うから。
30代の若さで亡くなった親友も、私の家に泊まって一緒にゴルフに行く程熱中していたし、彼の誌の編集者達の半分以上が後にホームコースを手に入れた...本当に、今はどうしているんだろう。


まだゴルフを楽しめるオレは、あいつに比べてなんて幸運な人間なんだろう。
...もっと心を込めて遊ばなければ、楽しまなければ。
古い埃だらけの本の表紙を見ていて、「来週絶対コースに行こう」なんて心に決めた。
いや、10月は絶対に毎週ゴルフに行くぞ。

...本を片付けるのは、その後でいいや。