ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

「見る」と「見える」と

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ファルコンまつばらさんが書いている「マイナスからの北海道移住 リターンズ!!」というブログに、自分がこんなコメントを書いた。

「「見る」ということ。
以前、百年に一度と言う大流星雨がありましたね。

あの時に、「晴れている地方の人は少しの時間でも見てみるといい。
多分一生に一度あるかどうかの出来事だから」と(昔の)ブログに書いたら、「流れ星なんてもん毎日見とるわ。」なんて言って、見ようとしない人がいました。

あの流星雨は大当たりで、近くの河原で布団にくるまって空を見上げて、ひっきりなしに流れる大流星に家族で歓声を上げていました。
「いつも見てるから」なんていう人は、いつも「見えて」はいても「見よう」とはしない人なんでしょう。
なんの感情も動かず視界に入っているだけというのを、「見ている」とは言いません。

...こんな夕焼け、本当に見ていたいものです。」

これはファルコンまつばらさんが北海道などで撮った、美しい夕焼け写真の数々に対して書いたコメントなんだけど、自分で書いていて「ああ、俺は最近ちゃんと見ていないかもしれない」なんて気がしてきたので、改めて記事にしてみる。

私はイラストとか絵とかを描く事を、自分の仕事としている訳だけど、「絵を描く」という事は「見る」という行為と同じなんだよね。
その「見る」という行為は、「写真のように形をしっかり見る」とは違う。
もし、それだけで写真のように描くのなら、絵やイラストではなくて写真でいいわけだから。
「物の本質を見る」なんて大袈裟でえらそうな事でもなく、ただ「自分の感覚を通してみる」(いわばフィルターのように)という事なんだけど、それはそれで厳しい。
だって自分のフィルターを通して書いたものが受け入れられなければ、仕事がなくってしまうのだから。
それでもそれ以外にやりようがないから、せめて自分のフィルターが曇らないように努力するしかない。

この「自分のフィルター」というやつは、日々の生活で毎日変化や刺激が少ない同じような時間が続くと、気がつかないうちに曇ってくる。
「昨日と同じような天気だな」とか、「代わり映えのない景色だ」なんて感じ出したら、やばい。
一期一会の時の流れの中で「同じもの」なんて絶対ないのに、入って来る情報をスルーさせだしたら、やばい。
この状態は、「見えている」だけで「見ていない」のだ。
当然描くものも「前にも描いたような」ものしか描けなくなる。

凡人で俗物な自分は、刺激を受けないとすぐにこうなってしまう。
そんな時に、自然の中に出かける「ゴルフ」は大事だ。
コースの風景や行き帰りの風景が、日常と違う季節の移ろいを嫌でも感じさせてくれる。
1週間・2週間振り、あるいは1月振りのゴルフは間違いなく季節の変化を感じさせてくれる。

それから、フィルターの汚れを取るために、なるべく樹の名前や、鳥の名前や、山や川の名前を覚えない。
そういう名前を覚えてしまうと、「見た」時に「名前」が浮かぶとそれを「見る」事をやめてしまうから。
名前が判った瞬間にそれで満足して、もう見たつもりになって興味は他に行ってしまいやすい。
もし名前が判らない鳥がいたら、人は「どんな色?」「どんな大きさ?」「どんな動き?」「どんな鳴き声?」...等々を考えて集中してその鳥を「見る」。
でも「ああ、山雀だ」なんて名前が判ると、頭の中にある知識の「山雀」のデータが浮かんでそれで終わりになってしまう。
目の前の山雀の姿は「見えている」けど「見ていない」状態になってしまう。
だから自分は名前を覚えないで、目の前に「見えた」ものを「見よう」と努力する。
(単に記憶力がない言い訳とも言えるけど)

これからも、行くコースでの、すべての出会いを「見よう」と努力する。

そうでもしないと、基本的に怠け者の自分は何も見ようとしないで、楽にスルーしてしまうに決まっているから。
そして、「ああ今日もつまんねえなあ」なんてのが口癖になりそうだから。

(でも...結局、これはゴルフに行く口実かもしれないね)