ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

取り返しのつかない夢だった

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Hさんが仕事を終えて帰って来たのは、深夜12時近かった。
4畳半一間のアパート、家具は殆どない。

どうせすぐには眠れないので、いつものように安い日本酒を飲む。
チューハイや発泡酒の方が安いのだが、夜中にトイレに行きたくなり、翌日寝不足になるので一番安い日本酒で我慢している。

摘みは何もないが、小さなテーブルの上に2枚の紙が置いてある。
格調高く、仰々しく、もったいを付けて印刷されたこの2枚の紙が、Hさんの人生を変えてしまった。

「オレがそんなに間違っていたのか?」
そんな問いかけをして、自分を責めるために酒を飲む。

Hさんは、東京の下町で親の代からの小さな印刷所を経営していた。
そんなに大きくは儲からないが、確実な付き合いのクライアントが多くいて、安定した仕事が続いていた。
時はバブルの始まりの頃、Hさんも仕事仲間に勧められてゴルフを始めていた。
子供のいなかったHさんは、奥さんも誘ってゴルフを楽しみ出した。
景気が良くなるとともに仕事も順調に増えて行き、奥さんと一緒に週1回のゴルフを楽しむために安いコースのメンバーになった。
会員数数千人と言われるその大衆コースは、会員権も無理なく変える値段だったのでメンバ-になれたが、スタートをとるのも大変だったしメンバーらしい特別な扱いを受けることもなかった。

それでもゴルフを二人で楽しむ日々が続き、仕事は忙しくなり、おまけに印刷工場の土地を買いたいと言う不動産屋が現れ、驚く程の高額な値段を示された。
そのとき土地を売ってしまえば、死ぬまでゴルフを続けられる金が手に入るような気がしたが、親の始めた仕事だったし、いつでも高額で売れると考えて売らなかった。

そうしてバブルが花開き、仕事は天井知らずで伸びて行き、土地の値段も上がり続け、Hさんは大金持ちになったような気がしていた。
その頃、あちこちで有名デザイナーの設計した新設ゴルフコースが、会員の募集を始めた。
Hさんの所にも「縁故会員」だとか「第1次募集」だとかの話が持ち込まれた。
会員数は数百人で、会員になればHさんの憧れていた「メンバーライフ」が十分味わえる。
今までのように,狭くてしょうがないロッカーで隣の人とぶつかりながら着替え、大衆食堂のようなレストランでせわしなく昼食を食べ,銭湯のような風呂でやっと湯につかる...そんなレベルじゃない,優雅なメンバーライフを味わえる...それはゴルフを始めて以来の夢だった。

Hさんは、仕事は好調で収入は増え続けているし,いざとなれば土地を売れば十分おつりも来る,この有名デザイナーのこんないいコースなら買った値段より下がることはない...おまけに銀行は「金を借りてくれ」と連日のように訪ねてくる。
...どう考えても悪い話じゃない、とHさんはあるコースの立ち上がり2000万円募集の会員権を,奥さんの分と2枚購入することを決めた。
ゴルフ雑誌でも毎週のように広告を出しているし,2枚買っておけば万が一何かあっても片方を売れば済む,そう考えていた。
さあ、これで苦労をかけた奥さんも一緒に,何時もゴルフ雑誌に書かれていた「優雅なメンバーライフ」を自分も味わえる...そう信じていた。

...バブル,という庶民には縁がない馬鹿騒ぎが終わるのは速かった。
コースの完成を待っていたHさんの所に,コース完成のニュースはとうとう来なかった。
Hさんの印刷所の仕事は急速に減り始めた。
パソコンの普及とともに、小口ではあっても沢山依頼のあった商店の印刷の仕事が無くなった。
会社関係の印刷物も自社内で印刷するようになって、Hさんのような町の印刷所に頼むことは少なくなった。
そうした時に、Hさんが会員権を買ったコースが資金不足で倒産した,とニュースが流れた。
景気が良かった時にはあれだけペコペコと頭を下げて来た銀行の営業が、会員権のローンを厳しく取り立てに来るようになった。

3000万円を超えるローンを抱えて、Hさんが最後に頼った自社の土地も,バブルが弾けるとともに買い手が現れなくなった。
一時は億単位の声もあったのに,周りが虫食いだらけで残ったために利用し難い土地となり、Hさんの土地を買う業者はいなかった。

間もなく,印刷所をやって行ける程の仕事は無くなり,奥さんに相談もなく買った2枚の会員権のことで,奥さんとの関係が悪化して...Hさんは奥さんにあるだけの財産を渡した上で離婚し,自己破産した。
勿論土地も工場も,バブルの時とは比べられないくらい安く手放し、Hさんは無一文の丸裸となった。

その後、ゴルフ仲間の紹介でスーパーの駐車場の案内係の仕事に付き,寝る前の酒を楽しみに日々を過ごしている。
ただ,その全ての元凶となった2枚の会員権証書は,なぜかずっと手元においている。
毎晩,その2枚の会員権証書を見ながら酒を飲み、もしかしたら自分がおくれたかもしれない「素晴らしいコースでの奥さんと二人の、ゆったりとしたメンバーライフ」を夢見るのだ。
...もしかしたら、別れた妻とそういう時間を過ごせたかもしれない...

Hさんは、自分のようなごく普通の庶民が,ゴルフ雑誌に載っているような「理想のメンバーライフ」なんてことに憧れたのが間違いだった、と今は思っている。
「ゴルフとは、このように優雅に楽しむものだ」とか、「真のメンバーライフとは、こういうものだ」なんてコピーに、憧れてのせられてしまった自分が愚かすぎたのだ、と。

その2枚の破れてしまった夢の証拠は、毎晩の酒の苦い苦い摘みとなる。