ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

ゴルフには「わかった!」と叫びたい一瞬がある。

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「ゴルフには「わかった!」と叫びたい一瞬がある」...P・Gウッドハウス

P・Gウッドハウスは、イギリスの小説家。
ユーモア小説の大家として知られ、後年アメリカに渡ってからゴルフを生涯の趣味とした。

この言葉、彼が言いたい本当の意味はこのあとにある。

「ゴルフには「わかった!」と叫びたい一瞬がある。
たとえ、すぐにもとの世界に戻ろうとも、何も感じない人より幸せだ。」

「わかった!」と叫びたい一瞬...いったい何回あっただろう。
というより、「何回叫んじまっただろう」だな。
ゴルフに少しでも真面目に取り組んだ人なら、だれだって経験あるはずだ。
日本語じゃあ、いわゆる「開眼」ってやつだ。

いつも失敗する。
どうやってもうまくいかない。
本を読んでも、練習しても、誰かに教わっても、どうやってもうまくいかない。
そんな「壁」の前で立ち往生しているような状況のとき、不意にそいつはやってくる。
何かの調子に、出来てしまう...なんでかわからないが、あれほど越えられなかった壁を越えている自分を発見する。
「あれ?」
「こうか?」
「お!! 出来る!」
「何だ、これでいいのか!」

...そう、その後は今まで出来なかった事が、何回でも出来る。
こうやりたかった、という通りに結果が出る。
「もうわかった。 これでいいのだ。」
「俺は遂に開眼したのだ。」

...甘い。
「その日は」出来たのだ...しかし、一度寝て次の日には、もうその「開眼したはずの何か」は自分の元からどこかへ行ってしまい、もとの壁の向こう側にいる自分を確認するしかない。
こんな思い、覚えがあるだろう。
いくらやっても越えられない壁の向こうで、「もう諦めよう」なんて考えたとたんに、ゴルフの魔女がご褒美に似たものをちらつかせるのだ。
再び壁の向こう側でもがくにしても、「一度は出来た」という記憶があるから、我々ヘボゴルファーは報われない努力を諦める事なく続ける事が出来る。

しかし、こんなゴルフをやらない人から見たら、無限の石積み地獄の不毛の労働のように見える行為こそ、ヘボゴルファーにとってはゴルフを続ける喜びであり原動力であるとも言える。
簡単には出来ない、けれどなにがしかの可能性ははっきりと感じる。
だからこそ、きっと出来るようになったときの喜びは大きいはず。
だから、かりそめの開眼であっても、「出来た!」と思った時には叫ぶし、喜ぶし、泣いちゃったりもする。
大の大人が、こんな事に一喜一憂する事が出来るのが、ゴルフって奴の魅力であり魔力なんだろうと思う。

それが、ごく偶に何の苦労もなく壁を越えて行く人がいる。
あるいはもっと稀に、ゴルフをやっていて壁を越える気なんてさらさらない人もいる。
こういう人にとっては、ゴルフは仕方なくやっているものであり、付き合いだけでやっているものであり、「出来たけど、なんなのさ」であり「出来なくたっていいじゃない」と言う代物でしかない。
そこには、ゴルフの苦悩も、悲しみも、絶望も、後悔もない。
そのかわりに、ゴルフの喜びも、興奮も、道すがらのやすらぎも、ホールアウトの達成感もない。
多分、そこを渡る風も、頭上に広がる空も、季節の移ろいも感じはしないんだろう。
そんなゴルフが面白いはずはないんだけど。

我々にとっては開眼なんてのは流行の風邪にかかるみたいなもので、たとえそれが一夜の夢だったとしても、ゴルフの楽しみは増しこそすれ減るなんて事は絶対ない。
我々には、きっと「開眼する力」はある。
ただ、それを手元に停めておく力がないだけだ。

ねえ、ご同輩、「ゴルフの真実に到達した」なんて思い込んだりしないで、もっと気軽に開眼して、ゴルフをもっともっと楽しもうじゃありませんか..