ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート⑲『労働者ゴルファーとしての宮本留吉』 その1

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日本におけるプロゴルファーというのは、戦後しばらくまでアマチュアから転向をしたプロを除くと、大抵はゴルフ場でキャディとして働きながらそのままコースに勤務してプロになっていく。というのが一般的で、福井覚治から始まるパイオニア達は勿論その道を歩んでいった。
※例外としては、六甲のキャディ出身ながら海軍勤務からサラリーマンを経てプロになった中上数一。大工として福井覚治宅の修理に伺った際にその手際からクラブ製作助手のスカウトを経て満州プロの祖と成った前田建造。東京GC詰めの少年コックからプロになった瀬戸島達雄がいる。

しかし、戦前の日本を代表するプロであった宮本留吉はそういった道を歩まずにプロになっている。
彼の回想を読むと、少年時代キャディは神戸GCで二~三年位務めた切りで、後は家業の手伝いをしており、二十前後に成ってから別荘番の仕事(後述)の一環でキャディを再開している。

ではその間どうしていたのか、どのようにプロになったのか。キャディをしていた頃からプロになるまでの動向が今回の書き物である

宮本は1940年に伊藤長蔵が丘人のPNで『Golf Dom』に連載した『宮本の揺籃時代』、『宮本の修業時代』(以下半生記)を皮切りに、最晩年までの四十五年間に多数の雑誌に回想を寄稿し、インタビューに答え、2冊の回想記を出している。
が、大試合や海外遠征、人生の一大事の話を除くと、10年置き位に物事の起きた年数にぶれが生じ、晩年になると肝心の個所を省いたり、(あまり良い言い方ではないが)改変をしてしまっている箇所もあるので、全容が掴み辛い憾みがある。
その為、この文においても幾つかの説が同時掲載となる事をお許し願いたい。


宮本が神戸GCでキャディをしていた時期であるが、『神戸ゴルフ倶楽部史』における彼の回想では、彼の住んでいた篠原村では六甲尋常高等小学校の尋常科5~6年、高等科の1~2年生がキャディをしており、1970年代以降のインタビューや、『ゴルフ一筋』(以下回想記)に前者の頃(11~12歳)にキャディをしていたと語っている。

一方1940年『Golf Dom』連載の半生記では、14歳(当時は数え表記が一般的)の時に始め、カックス(初期の倶楽部の代表的プレーヤーP.R Coxのことか)という上手いプレーヤーに二夏ついて、父親が六甲山の八合目に茶店(伊藤曰く別荘向けの食料品販売も兼ねていたという)を開く16歳までキャディをしていた。とある。

宮本本人も1954年に雑誌『Golf(報知新聞)』における座談会でキャディをしたのは13~15歳の時からと振り返っている他、『神戸ゴルフ倶楽部史』でも、開始年齢は触れていないが、家の仕事を手伝うように言われて三年余りでキャディを辞め、そうしているうちに父が茶店を開いた。とあり、加えて宮本の恩人となる広岡久右衛門の『茨木の思い出』や『関西ゴルフの生い立ちと思い出』でも13歳乃至14歳で始めたとあるので、こちらが正しいやもしれない。

※数え表記による年齢は、生まれた年から1歳、その翌年の1月1日に2歳と換算していくので(一方学齢や徴兵検査は満年齢で換算していた)、1902年9月25日生まれの彼の場合、半生記にあるキャディ開始時の年齢は、数え換算であれば、六甲のシーズンを考えると満年齢12歳半前後からとみられ、尋常小学校を卒業している年齢であり、戦後の記述が数え換算としても尋常6年から卒業後の年齢になるので、回想記等晩年の回想と1~2年ブレが出る

宮本もゴルフという未知のスポーツに出会い、ほかのキャディ同様、棒切れなどで会員たちのフォームを真似してみたり、石ころやロストボールを打つゴルフ遊びをする様になった。
彼が半生記の取材で答えた処によると、住んでいた篠原村(灘区篠原中町)の外れに300坪程の芝地帯があり、六甲でゴルフを覚えた少年達が、サンドグリーンにサンドティのショートコース(最長150yd)を造っており、鎌(厚手の柴刈鎌か)の廃品を鍛冶屋でマッシーやパターのようにしてもらい、それに樫材のシャフトを付けてクラブにしていたという。

宮本もキャディ時代ここでプレーをしていたというが、回想記ではゴルフ遊びの話は出てくるものの、この場所は出てこず、鎌のヘッドも然り。(注=宮本も取材に協力した上前淳一郎の『遥かなるフェアウェイ-日米ゴルフ物語-』では、ここで行ったらしい鎌から作ったパターによる少年らの競技の話に触れている)
一方同書と1960~80年代の雑誌における回想では、木の幹枝を削ってクラブを作って、空き地や稲刈り後の田んぼで仲間と向かい合い打って打ち返して遊んだ話や、壊れたカンナ台を大工さんから貰って竹竿を挿してウッドにした話が出てくる。

キャディを辞めた後の宮本の動向であるが、回想記によると、小学校尋常科を卒業してからは、家業(床屋兼雑貨店)の仕入れや摩耶山にある各寺院への郵便配達の手伝い、農家の稲株起こしの手伝いというような仕事をしており、父親が六甲山に茶店を開いてからは(注=大正六年とあるので満15歳に成る年のはずだが、半生記同様数えの16歳表記である)、その仕入れ係として神戸まで出かけ数十㎏の荷物を天秤棒で担いで山を登り降りしていた。
(また半生記ではシーズンオフには薪の切り出しと運搬を行っていた。とある)

19歳の時に父親との喧嘩で一時期家出した際は神戸周辺で馬方として壁土運びをしており、それから間もなく父親が急逝し、その後家に戻って思案していたところ知人の別荘周旋業者の紹介で広岡久右衛門の別荘番兼キャディの仕事に就き、これがプロゴルファーになるきっかけとなった。とある。
※これについて、南郷三郎に雇われた事が省かれていたり、いくつかの事柄で日時のブレが生じているので後述の際に検証したい。


しかし、彼はゴルフと切れることはなかった。これは回想記や半生記をはじめとする書き物に記されているが、山内の茶店に移り住んでからは、時間があるときに(主にコースが空いている平日)神戸GCに顔を出し、支配人で様々な仕事をしていた佐藤満の許可を貰って、彼のキャディをしながら一緒に回ったり、コッソリ入り込んでクラブハウスから離れているホールでボールを打っていた。
プレーの許可を貰えるかは佐藤の機嫌次第であったというが、彼から誘ってくれる事も有った。またキャディ時代の友人の上堅岩一(のち日本プロ優勝、当時は内海姓)や先輩の越道政吉とプレーをしていたような話も残っている。

※暇な時に神戸GCを訪れていた宮本だが、後年の回想で鳴尾の海岸コースへ友人らと出かけてプレーをさせて貰った事も有るという点は注目すべき事柄であろう。
時期について1954年に14~15歳頃か、と回想しているが
『ハーリー・クレーンさんが神戸に店を出していた。三人連れで『鳴尾で一ぺん遊ばせてください』とお願いに行った。(原文ママ)』
とある事から、鳴尾GCが鳴尾CA跡地で再結成してハリー・クレーンが会員となった時期を考えると1921~22年頃であろうか。

一方1960年のゴルフマガジンにおける座談会ではクレーン兄弟の所へ植方(注=上堅岩一の誤植とみられる)と二人でいっぺん遣らせて貰えないか頼みに行った。と話しているが。司会の『プロにしてくれってか』という問いに『違いますがな。キャディどすがな』と答えてもいる。


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宮本がゴルフを本格的に愉しむ様に成ったのは彼が19歳になる1921年頃からだろう。
この年宮本は、関西ゴルフのパイオニアとして知られた南郷三郎(加納治五郎の甥、神戸桟橋・日本綿花社長)が六甲山上に山荘を持った事から、その番人の仕事をする事となった。
六甲山上は神戸GC創立者で開山者A.H・グルームが101番別荘を建てて以降、別荘地としても発展した。この当時は50軒程の別荘が散在しており、殆どが神戸GC会員であった為、別荘の持ち主はもちろんその家族、そこで働く使用人たちも神戸GCでの様々な出来事に精通しているゴルフの村と化していた。

 その環境で行う仕事には、別荘の管理や食材・水の運搬、各種用足しの通常業務のほか『旦那』がゴルフをする際にキャディをする事も含まれていた。
神戸GC会員たちの回想を読むと、六甲ではそういったキャディ達が何人もおり。『旦那』と一心同体なスコットランドの古典的キャディと同じレベルのスキルを持っていた様だ。

これは『Golf Dom』における宮本の半生記からであるが(文中では二十歳とあるが、当時は数えで年齢を換算するのが一般的だった)、『神戸ゴルフ倶楽部史』における宮本の回想では、19歳のある日倶楽部に行くと支配人の佐藤満から臨時キャディを頼まれ、たまたま就いた相手が南郷で、彼に気に入られて休日プレーをする度にバッグを担ぐよう佐藤に頼まれ一夏行い、翌年もシーズン中キャディとして雇って貰うことになったという。
それ以前1954年の座談会(南郷も参加していた)では、そこの経緯に触れず南郷のキャディをした時期(21~22の頃と談)を述べているに留まっている。

南郷の回想(『神戸ゴルフ倶楽部史』)の方は、宮本の父親の亡くなった時期、家が茶店を始めた時期とキャディを始めた年齢(こちらは間違ってなさそうだが)、自身のキャディに成ってくれた年齢や順序に結構なぶれが生じてしまっている。また宮本が別荘番をしていたか否かには触れていない。
また広岡久右衛門の『関西ゴルフの生い立ちと思い出』も宮本が20歳の時に南郷のキャディに就いたと書いており別荘番か否かは触れず、『遥かなるフェアウェイ』では19歳の時に南郷が宮本の茶店に直接訪れ、日当50銭でキャディとして雇われたのが始まり。としているので、宮本本人の回想が正しいとみるべきなのだろうか。

しかし宮本に取材をしながら半生記を書いた伊藤長蔵も1920年から六甲でプレーをしており(半生記の冒頭で同年夏六甲における自身のゴルフ日記を引用している)、また南郷ともゴルフ仲間として長い付き合いがあったことを考えると、宮本が別荘番をしていたとする記述を一蹴することも出来ない。
※『日本のゴルフ史』掲載の同倶楽部会員入会年リストでは伊藤の入会は1921年とされているが、年次ごとの会員名簿の欠落が多かった為、競技状況等の状況証拠から制作されている事を注意したい

宮本はキャディ中時々ボールを打たせてもらったが(あるいは南郷が休憩中こっそりクラブを使わせて貰い…)、暇なときもプレーが出来るちゃんとしたクラブが欲しくなり、加えてこの頃、佐藤のクラブ修理の作業場(彼はクラブの修理製造も行っており、のちに神戸でショップを経営する)に入れて貰い工程の粗筋を知った事もありクラブ製作を試みた。
(時期については17歳の頃とする1971年の回想と20歳前とする81年の回想がある)

宮本は小学校時代に工作で荷車の模型を作った際、それを見た大工の棟梁がぜひ弟子に。とスカウトに来た話が残っている程手先が器用で、道具の製作はお手の物であった。
冬の仕事である薪伐採の時に斜面に生えた柘植の木を切り出して一冬乾燥させ、それを削り出し、ドリルがないので焼け火箸を使い難儀しつつもホーゼルを開け、鍛冶屋からもらった鉄板ないし真鍮板を切り出してエッヂガードとして装着させ、ツルハシ用樫の長柄から削り出したシャフトを付けたウッドクラブを造り上げた。

これは重い木材を使った為か450gを超え、グリップもない棍棒のようなクラブであった。が、5番ホールに忍び込んで打ってみるとキャリーでグリーンに乗ったといい、後日そのショットを見た南郷にお古のグリップを貰い、竹ひごのバックラインを着けて巻いてからはさらに距離が出たという。
宮本はこの回想をする際、年齢によってホールの長さを215~190ydと言ってブレが有るが、当時の5番は217ydであったので、正規の素材ではない手作りのクラブでここまで飛ばせたのは注目すべきことであり、またグリップのアイディアは後年のクラブ製作における彼独特のグリップ形状(台形に近い楕円形)の原型になっているのも興味深い。

この自作ウッドに続けて、大枚を払って佐藤からミッドアイアン(#2アイアン、25°位)のヘッドを買い、樫のシャフトを装着した所から彼のゴルフは新たな局面を迎えるようになった。(南郷もヘッドをあげた話を回想しているが、宮本はそれについて触れていない、佐藤から買った後に貰ったのか)

宮本が本格的にゴルフに熱中した南郷の別荘番時代、神戸GCの会員やキャディ達の間で『南郷さんとこの留やんは物凄く飛ばすらしい』という噂が立つようになってきた。
この時代のプレーについては断片的にしか記録がないが、本人によると佐藤やキャディ仲間とのプレー(通常のクラブ使用とみられる)で当時254ydの18番ホールを度々1オンできるようになり、2年目の夏、南郷の休憩中にクラブを数本拝借して廻ったら64が出たという。
又、半生記によると東京からC.G・オズボーン(日本Am2位二回)という超ロングヒッターが訪れた際、彼が18番を直接オンさせる事が六甲山上で大評判となった。それを聞いた宮本は夕方南郷のクラブを持って試し、自分も出来た事から自信を深めたという。
※神戸GC、18番ホールは山の斜面を迂回するようなレイアウトで、直線で1オンを狙う場合は当時ならば、谷越えに230yd以上のキャリーが無ければならず、様々な喜悲劇を生んだホールであった。

この頃(1921~23)のゴルフ界には福井覚治が日本初のプロとして存在しており。続けて宮本の先輩の越道政吉が福井のアシスタントからプロになり、同じく先輩の中上数一が程ヶ谷CCのスカウトを受け神戸を発って横浜に向かい、鳴尾GC会員村上伝二がプロ転向を思案する揺籃期であったが、宮本本人はまだゴルフが仕事になるとは考えておらず、初夏から秋にかけて旦那のお供や暇なときに仲間と愉しむ“球打ち”という認識で、シーズンオフの頃は特に思いを馳せる事も無かったという。
それが変わってきたのが、南郷の別荘番(あるいは期間契約キャディ)を二年ほど務めた後、大阪の実業家十代目広岡久右衛門(後大同生命社長)の別荘番として雇われてからだ。


(続く)
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