ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

知られざる来日プロ~2 (掘っくり返し屋のノート~9)(前編)

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最初期の訪問プロ達の中で注目に値するのが、今回の主人公ダヴィッド・フード(David.Hood生没年不明)である。
彼の名のスペルはDavid.Hoodであるが、本によっては(特に新しいもの)ディヴィッド・フッドと書いてあるものも見受けられる。リアルタイムで彼と交流のあった人物はフード乃至フゥードと記しているので、今回はダヴィッド・フードで統一したいと思う。

先人が記し伝わる事、リアルタイムの史料を拾い集めて調べた所、彼はスコットランド出身のプロゴルファーで、兄もプロゴルファーであったと雑誌に書かれている。
ロングノーズ時代にマッスルバラのTomas.Hood(1843~1909)というクラブ職人が居り、縁者ではと考えるが確証は得られていない。

フードは来日前マニラのカルカーンGCに所属しており、先に日本で働いたトム・ニコルから同地のゴルフ情勢を聞いて、1921年にニコル来日を斡旋した船津完一の世話で来日した、という事が戦後のゴルフ書籍に書かれているが、調べてみるとオセアニアに足跡が残っている事に気付いた。

1912年版『Ncibet`s Golf Year Book』にニュージーランドクライストチャーチにあるHagleyGC(1900年開場当時9H3000y)のプロとしてDavid.Hoodの名が記され、更に1922年版『Golfer`s Hand Book(英国)』の『植民地のプロ』の項目にも同クラブ所属として名前が載っている。
他にも1906年度オーストラリアPGA二位のフレッド“F.G"・フードというプロが同時期ニュージーランドのAuckLandGCに所属していた他、1920~50年代にかけて、オーストラリアのトーナメントでHood姓のプレーヤー(男女問わず)の優勝記録が残っている事から、彼等が家族でこの二国へ移住していたと見られる。
それを裏付ける話として、本人が『Golf Dom』記者に1921年10月シドニーでPoplewell某(オーストラリアOP二勝のフレッド・ポップルウェルの事だろう)と行った雨中のフォアサムで、ブラッシーショットをした際、クラブがすっぽ抜けて120~130yd飛んで行った話を語った記事が同誌1922年12月号にある事から、彼は季節が逆となる南北半球を上手く利用して渡り鳥のようなプロ生活をしていたと見られる。

さて、フードは来日の打診を東京GCの井上信・大谷光明(共に日本Am勝者でゴルフ界の重鎮)へ行っており、当初は駒沢・程ヶ谷・根岸・新宿御苑などでレッスンをしており、Golf Domには彼の活動が度々報じられていた。
例えば程ヶ谷CCの九ホール開場コンペティションに特別出場して午後に37・37=74で廻り、最初のコースレコードを作っている話や、駒沢ではメンバー達とマッチをした際の出来事が1922~23年の記事にあり、1924年のキャディトーナメントで同地のキャディ達がフードの影響を受けたスイングをしている事が書かれている。
関東の活動で特筆すべきは、宮内庁の要請により新宿御苑で行った宮内官達へのレッスンで、1922年中に4~5回行っており、同年関西に移った頃にもレッスンに訪れているようだ。
彼はこの時に日本で初めて映画フィルムにプレー(スイング)が撮影されたプロになった様で、映像からダウンスイングにおける体重移動の欠点が判り、直したら30yd距離が伸びた、と『Golf Dom』記者に語った話や、ゴルフ書籍収集家で熱心なゴルファーであった西村貫一に『初めて自分がどんなスイングをしていたかを見た』と語った話が残されている。

上記のフードが1922年には関西に渡っていた事について、日本ゴルフ界の正史では彼が1923年7月に茨木CCの要請で大阪へ渡り、同倶楽部のコースを設計した事が書かれている。また、茨木CC年史にも1923年8月3日に委員が彼と大阪で会見した、とあり、更に翌24年1月12日に彼の滞在費用調達のため青木(甲南GCの所在地)でレッスン会を開いたとある。
これが彼の関西における最初の活動のように読める内容であるが、『Golf Dom 』1922年11月号に甲南GCと思しきコースで同誌編集長の伊藤長蔵が撮った、彼のマッシーとドライバーショットの三枚撮り写真があり、更に先述のクラブが彼方に飛んで行った話は記者(無記名だが伊藤と見られる)がフードのレッスンを甲南GCで受けた帰路のやり取りから書かれている。
その為正史の記述は、恐らく茨木CCに関わった最初の日時、と言うべきで、関西に初めて訪問した訳ではない、と訂正するべきではなかろうか?

因にフードは1922年末~1923年春にかけてマニラに戻っており、1923年3月には古巣カルーカン(Caloocan、文中マニラGCとも書かれているが、そちらの住所はCaloocanであり、関連を調べている)で自身が出したパー68を亢進する67、66を出した事がマニラタイムスの記事となる。66はフィリピンOP勝者、ウォルター・Z・スミス(Am)とのプレーの際に成し遂げられ、両者の好プレーが大きく報じられた。(邦文記事『Golf Dom』同年4・5月号)。
恐らく、正史でフードが1923年に初めて関西に来たように書かれ低るのは、マニラに戻った事により、以前の行動がリセットされたと考えられたのか。

*なお、茨木CC(現東コース)の設計はフードとなっているが、敷地や建設費問題の難事により建設に時間が掛かり、9Hを残して彼の契約が切れ、残りは程ヶ谷CCから招聘のグリーンキーパー峰太刀造が苦心の末仕上げた。
その後も同倶楽部のグリーンコミッティであった加賀正太郎がコース監視直後からアリソン提出のプランに沿うよう幾度も改修をして整えており、初期の発展は二氏の奮闘によって成り立った。

(続く)