ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

化石

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Mさんは、65歳になって東京に戻って来た。
30年あまり、生まれ育った東京を離れてある地方で暮らしていた。

30年あまり前にヘッドハンティングされて、幹部職員として大きな会社で働いて来たが、60で定年となり、その後引き継ぎも含めて5年程請われて嘱託として働いて来た。
しかし、出来れば70まで、という誘いは「あとは自分のやりたい事をしたいので」と断った。
...両親のために建ててあげた東京の家は、母親が亡くなってから10年の間誰も住まなくなっていた。
しかし、生まれ育った所で最後は暮らそうと、定期的に家の管理に帰って来ていたので、引っ越して来て住むには何の問題もなかった。

引っ越しの時に、古びたゴルフセットを捨てようかどうするか迷った。
ゴルフをしたのは、3回だけ。
ショートコースに2回、本当のコースには1回だけ行った。
ゴルフを教えてくれたのは、その時まで15年以上付き合って来た男。
他のどんな男より、一緒にいると楽しい男だった。

よく「クールな美人だ」とか「理知的な美人」と言われ、結婚を申し込まれた事も何度かあったけれど、その男より逢っていて楽しい男は他にはいなかった。
飾らない自分が出せたし、悩みや愚痴もよく聞いてくれた。
酒を飲んで大騒ぎもしたし、一晩中唄を歌いまくった事もあった。
そして、ゴルフも道具を揃えてくれて、半ば強引にやらされた。
元々学生時代に運動をしていたので、すぐにコツを掴みちゃんと当たるようになった。
一緒にゴルフをするのは、楽しかった。

3度目に、始めて本コースに行った後、しばらくして男と別れた。
特に何があった訳ではないけれど、楽しすぎたゴルフの後だから、何か感じたのかもしれない。
(...その男に妻子がいるのははじめから知っていた。)
電話で別れを伝え、きっぱりと分かれた。
何度か電話があったけれど、自分の気持ちは変わらなかった。
自分の人生の大事な楽しい時間を、一つ消した。

仕事は面白く、どんどん責任ある仕事を任せられることが、生き甲斐になった。
その後も、何度か結婚を申し込まれた事があったけれど、結局一人で暮らして来てしまった。

男の写真や手紙はみんな捨てたのに、たった3回しかラウンドしなかったキャディーバッグを、なんで捨てなかったのか自分でも判らない。
今度の引っ越しでも、そのキャディーバッグは何となく持って来た。
古いレディースのクラブやキャディーバッグは、男のものに比べて安っぽくて、錆びと埃と汚れで半分腐っているように見えるのに。

これからの時間、ゴルフをしてみようか...
そういう考えが、少しずつ固まって来ている。
幸い生活に心配ないし、血圧が高い以外に健康には問題ないし...明日から新しい道具を揃えて、もう一度コースのラウンドを目指してみようか。
「ゴルフは何歳で始めても、誰でも上手くなれる」「何歳で始めても、ゴルフは楽しめる」...そういう事をよく聞くし、近くに大きな練習場もある。
元々運動が好きだった自分には、死ぬときはコースの上で、なんてのも洒落てるし。

もうすっかりジジイになっただろう男の事はもういいが、男の残したゴルフの楽しみは、残りの自分の人生に大きな意味を見いだす事に役立ちそうだ。

新しいゴルフ道具を揃えたら、この化石のような道具は燃えないゴミに出してしまおう。
そうして、また新しい自分の人生を始めよう。