ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

間違いだらけのスイングでも..

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「すべての点が間違いだらけのスイングでも、世界一になれる」...リー・トレビノ。

悪天候全英オープンを見たために、前回に続いてリー・トレビノだ。
この陽気なメキシコ系アメリカ人がアメリカツアーで頭角を現し始めた時、殆どあらゆるゴルフメディアは彼のスイングを「すべての点で間違っている」と酷評した。
それは当時一般的だった「正しいゴルフスイング」の考え方とは、トレビノのスイングは殆ど全部が違っていたからだ。

グリップが一定していない、
スタンスがオープン過ぎる。
トップが浅い。
フラットすぎる。
右手で打っている。
右半身主導のスイングだ。
アウトサイドインの軌道だ。
フォローを真っすぐ出しすぎる。
右側が出過ぎる。
重心が左に出過ぎる。
...等々。

当時のスーパースターだった、パーマーやニクラスなどのスイングが「正しいスイング」と言われた時代、こんなスイングは言語道断...レッスンプロ達にとっては、営業妨害のスイングだったろうと想像出来る。
ところがトレビノは、こんなスイングで、スライス一辺倒で、全英オープン2勝、全米オープン2勝、全米プロ2勝を挙げたのだ(マスターズだけは、オーガスタのコースが彼の球筋に合わないと、苦手にしていたが)。
実際には、スイングの大事な部分ではしっかりと理に適った動きをしているのだが、もし強くなければお世辞にも他人に褒められるスイングではなかったろう。
...ほかの人に「奇麗なスイング」と褒められることは絶対になかったスイングだ。

今年の全英オープン、あの風とあのリンクスのコース...「奇麗」と褒められるスイングは、まったく役に立たなかった.
強風と、平らな所のない千変万化するライを相手にして、必要だったのはいかにフェースをボールに正確に当てて、思ったような球筋のボールが打てるか...だけ。
美しいトップも、美しいフィニッシュも意味がなかった。

我々へぼゴルファーにとって、「奇麗なスイング」というのは、正直憧れではある。
誰だって他人から「奇麗なスイング」と言われたい。
(初心者がレッスンプロに教わって、奇麗なスイング作りから始めるのは、まったくもって正しいと思う...多分それが上達への一番の近道だと思うから。)
しかし、ある程度(長い時間?)自己流で楽しんで来て、それなりなボールを打てるようになった後、スイングが奇麗じゃないから奇麗なスイングにしたいと思っても、それは非常に難しい。
一度身体が覚えたスイングは、そう簡単には変えることは出来ない。
いくら教わっても練習しても、奇麗なスングへの改造はなかなか上手く行かず、スコアも伸びないどころか悪くなって行く。
仕事の合間に、出来る限りの努力ををしているのに、いつまでたっても奇麗なスイングにはほど遠く、スコアも悪くなり...ゴルフに行くのが辛くなってくる。
これは本末転倒じゃないのか?

ゴルフは、止まっていて自分からは動かないボールを打つゲーム。
どんな格好だって、毎回きちんとボールに当てられれば、後はクラブが助けてくれたり頭の使い方でホールと戦って行けるもの。
どんなライからでも打てる打ち方...奇麗な弾道でなくても、自分だけの球筋でもいい。
ほかの人とは違うルートで進んでもいいし、全然違ったクラブを使ったり、クラブの使い方が変わっていてもいい。
ルールに抵触するような特殊な打ち方じゃなかったら、どんな風にクラブを使ってどんなスイングをしたっていい。
ゴルフってゲームは、結構自由なことが出来るのだ。

トレビノみたいなプロだっていたんだ。
誰もが奇麗なスイングで、奇麗な弾道のゴルフを目指さなくたっていい。
自分の打ち方に磨きをかけて、自分だけのホール攻略を楽しむのだって面白いと思わないか?
自己流を磨いて行くのもゴルフの醍醐味だと思うし、そんなゴルファーは格好いいと思わないか?

それでも自分の打ち方に、再現性を高めるだけの練習は絶対必要なんだけれどね。