ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

忘れられないプロゴルファー...33「ロベルト・デ・ビセンゾ」

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ロベルト・デ・ビセンゾ、1923年生まれのアルゼンチンの生んだ伝説的名ゴルファー。

残念ながら、彼が活躍した1960年代は、まだゴルフとの関わりは全くなかったために、彼のプレーがどんなものであったかは全く知らない。
ただ、ゴルフの歴史には、1967年に全英オープンを征して、「アルゼンチン人として初のメジャータイトルをとった」と言うことが、光り輝いて記されている。
アルゼンチンというゴルフが殆ど一般には普及してはいない国で、メジャーを勝つ選手が出る不思議は、2007年にアンヘルカブレラ全米オープンを獲ったときにも話題になった(それに引き替え...)。

ロベルト・デ・ビセンゾがアメリカツアーに参戦した頃の、南米出身のプロゴルファーの苦労を彼はこんな言葉で現している。
「もし70以下で何時も回れば、皆は理解しようとしてくれるが、それ以上打ったら誰も話をしてくれようとはしない。」

そして、彼を有名にしたのは1968年のマスターズの「スコア誤記事件」。
この年のマスターズ最終日、彼は17番でバーディーを獲り首位タイでホールアウトした。
ところがこの時、マーカーのトミー・アーロンが、この17番のスコア3を4と誤記してしまった。
これにビセンゾが気がつかずにサインして提出してしまったため、実際より1打多く「過大申告」されたスコアが採用され、ビセンゾはプレーオフをすることなく破れて2位となった。
その時、気落ちしたロベルト・デ・ビセンゾに、当時病床にあったボビー・ジョーンズが「ルールはルールだ...だが私にとって今年のチャンピオンは二人いる」と語ったということが伝わっている。

ロベルト・デ・ビセンゾというゴルファーが記憶に残ったのには、もう一つの逸話を知ったせいもある。
それは、佐藤光浩氏が「ちょっといい話」で書いている逸話。
「ある大会で優勝したビセンゾが、優勝賞金の書かれた小切手を持ってクラブハウスを出ると、そこに一人の女が寄ってきて彼に話しかけた。
優勝のお祝いを述べた後、実は彼女には重い病気の子供がいるのだが、貧乏で治療費が出せない...助けて欲しい、と。
その話に同情したビセンゾは、小切手に裏書きして女性に渡した。
...後日、その女性が詐欺師だった、と聞いたときに彼が言った言葉は『では、本当には重い病気の子供はいなかったのか...それは今週聞いた一番良いニュースだ』。」
(この話を他の本でも読んだことがあるような気がするのだが、それも佐藤氏が書いたことだったのかもしれない。)

ロベルト・デ・ビセンゾは、アルゼンチンの伝説的なゴルファーとして、その後エドァルド・ロメロやカブレラを育てているが、...ちょっと格好いい。