ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

ヒッコリークラブに物語りあり

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先日このブログで紹介したこのクラブに、松村博士から「このクラブを作った作者の情報」というメールが届いた。

J &A SIMPSON    

SPECIAL

ROBINSON & CO
SINGAPORE

とヘッドに刻まれているセミロングノーズのヒッコリーシャフトウッドだ。
ヘッドとシャフトは貼り合わせなのだが、古いロングノーズウッドなんかに比べてネックが細い。
ヘッドは良い状態だが、シャフトは丁寧に糸が巻いてあり多分ヒビが入っている状態で実用にはちょっと難がある。
無理に使って完全に折ってしまうより、この修理の丁寧さも含めてこのクラブは実用はせずに残しておくべきだろうと思っているもの。

そこに松村博士のメール
あのクラブは、1880~90年代に活躍したプロ、シンプソン兄弟のアーチーとジャックのお店(1900~15年頃在った。とオルマン親子の収集本に記)の品で、
1900~10年頃のボール移行期の品と見て良いかと思います

アーチー・シンプソン(1866~1953以降、全英OP2位2回)は1880年代半ばからカーヌスティでクラブを造っていた。と別の収集本に在りました

興味深いのが、カーヌスティのプロをしてた兄弟のボブ(お店は1984年迄営業)がバルジャーを初めて製作した1人ながら

彼等は時代的に過去の物になりかかった"伝統的な"形状のクラブを造って居たのは、

オールドタイマー向けに造って居たのか
はたまたシンガポールのショップの要望でしょうか

尚、アーチー・シンプソンは1910年代に息子のアーチーJrと渡米し、
デトロイトCCのプロになり、同地のキャディだったレオ・ディーゲルを可愛がり、立身の応援してました

その後は息子にヘッドプロを譲ったものの、1941年に彼が早死にした為、75歳で復職し、クラブでは彼の永年勤務を賞して記念日を造った。
とカーヌスティで少~青年期を過ごした全英Am勝者ロバート・ハリスの回想記に書かれていました」

続いて松村博士からの補足メール
オルマン親子(アメリカのゴルフアンティーク収集・販売の大御所)の『the Encyclopedia of Golf collectibles』では
ジャック・シンプソン(6人のゴルフ兄弟の長男で1884年の全英勝者)と末弟のアーチーの会社で1900~15年頃の経営とあるが

英国のアンティーククラブ研究の第一人者
デヴイッド・スタークの『Golf in the making (イアン・ヘンダーソンとの共著)』や『Golf the great clubmakers  』
では
ジャックと別の兄弟のアレックスの経営とあり。
お店は1891年頃に始め、ジャックがカーヌスティに戻るまで続いたと在るが閉鎖年は未記載

加えて1892年頃にボブとアーチーがカーヌスティで会社を起こし、ジャックも加わった。という話や、アーチーがカーヌスティを離れてまた戻る等ら、兄弟がボブの会社の経営から付いたり離れたりしている

シンプソン兄弟はジェームス・ブレードと同郷の先輩で1人を除き、5人がプロに成っている。
特に活躍したのが長男のジャック、後述のボブ、末弟のアーチーで

ロバート"ボブ"・シンプソン(1862~1923)は
ロバートフォーガンの下で働いた後、1883年頃カーヌスティのダルハウジーGCのプロ兼クラブ職人として就職

同地に他の兄弟達も集まり、彼等の長打を打つフラットで滑らかなスウィングが地元の若者達に模倣され
(コースがスコットランド有数の長さであったのも影響か)

所謂カーヌスティスウィングとしてボビー・ジョーンズらに受け継がれた

バルジャーのウッドは1884~5年頃同地方出身でトップアマとして知られたロイヤル・ウィンブルドンGCキャプテン及び事務長の(ロイヤル・St.ジョージスGC(サンドイッチ)の発起メンバーでもある)ヘンリー・ラムの依頼で制作

以降シンプソン兄弟も使い始め、プロ仲間から『不恰好なクラブで凄い飛ばしてる』とバルジャーが注目され、人気が出る様になる

※同じ頃にウィリー・パークJrも制作
日本ではラム・シンプソン説が一般的なのは
摂津御大が後述のロバート・ハリスの回想を引用した為

シンガポールにはゴルフ倶楽部が1891年に出来ているので、あのクラブはシンガポールのゴルフ黎明期を見て居たのではないか


ロバート・ハリスはカーヌスティの隣接都市ダンディーの産まれで
13歳からロンドンに行く20歳までカーヌスティで過ごし

シンプソン兄弟初め、スミス兄弟、メイデン兄弟(アレックス・スミスの奥さんがメイデン家の人)、ジョージ・ロウSr.を始めとする後の移民ゴルファー達と一緒にプレーしたり(彼等は所謂労働者アマチュアが多かった)
キャディをして貰う関係から付き合いがあり、回想記『Fifty Years of Golf 』でカーヌスティの事に多くページを割いている。
※その為かバルジャーの件など地元ひいきの記述あり」

さらに松村博士からの再補足。
アーチー・シンプソンはカーヌスティ時代に ジョージ・ロウSr.にレッスンをしている事

アメリカへは1911年にデトロイトCC(正式にはザ・CC・オブ・デトロイト)に就職

当事の記事にはブレード同様歳をとってから巧く成っている。と報じられた

息子の死後復職してから顕彰されて出来た『アーチー・シンプソンの日』は倶楽部の年次トーナメントである 

可愛がっていたレオ・ディーゲルをアシスタントにしたのは、彼がが16歳そこそこでミシガンOPに優勝した後の説と前の説があり。
こちらは私もよく判りません」


...
どうだろう。
今の様々なチタンヘッドのドライバー達、あるいはその前の金属ヘッドのウッド達に、後年まで語られるようなクラブストーリーが残るだろうか?
ゴルフクラブは基本的に「より正確に、より飛ぶように」進化してきたものだとは思うけど、こうした個人や小さなファクトリーがこうした道具を作ってきた時代には一本一本のクラブにそれぞれのストーリーがあった。
一本のクラブにはそれぞれプロや職人の思い入れが基本にあり、それを使った名手たちがそれを元にストーリーを完成させる。

しかし、そういう話はクラブというゴルフ道具が、大きな企業の工業製品として大量生産されるようになるとともに失われて行ったんだろう。
語られるのはクラブのストーリーではなく、ただ「どのくらい飛んだか?」「どのくらい正確に打てるか?」の絶対的数値ばかりになり、自分とは全然違う逞しすぎて上手すぎる職業ゴルフ屋の「活躍度」による「こっちの蜜が美味いか?」「あっちの蜜の方がもっと美味いか?」の人気次第の右往左往。

一本の古い壊れたクラブにも伝わるクラブストーリー。
(調べてくれた博士が居たからこそだが)ラウンドしない時間にも、なんとも豊かな時間が過ごせる「ゴルフ」の楽しみの一コマ。



ちょっと、贅沢な時間だ。

(松村博士からのメール内容の著作権は松村博士にあります)