ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

あれから45年以上...(フォー エバー ヤング)

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当時は学園紛争は山場を迎え、ビートルズが新しい時代の象徴になり、若者は「自分達が世界を変えられる」と言う夢を見て、それ迄あったものを「倒すべき価値観」と考える事が正しいと思っていた。

だから何かの思想や主義主張に単純に酔う事が出来たものは、それらのものに飲み込まれてなんの疑いも無く過激な行動に走っていった。

しかし思想にしろ宗教にしろ、そんな事を完全に信じてしまう事を不思議に思い、なんの疑いも無く飲み込まれる事は「おかしい」と感じてしまう自分のような人間は、時代の大波の下でもっと違う生き方を考えていた。
それ迄の「受験競争から大学を出て、大手企業なり上級公務員なりになる」と言う、親の望む「安定した人生」を外れて、「自分」の生まれて来た意味のあるような人生を生きたい、と。

と偉そうに言っても、所詮頭の出来の良くない自分には「とりあえず親の望んだレールからドロップアウトして、何かものを作るような人生を生きたい」、程度が限界だった。
「ものを作る」..例えば、陶器を作るとかデザインをするとか(絵を描くなんて、とても才能が無くて無理と思っていた)なら、芸大や美大がまずその出発点である事は誰でも判る。
しかし、家には芸大・美大に入る程の金は無く、それ以前に石膏デッサンもやった事が無い自分には全く無理な別世界・・・そこでどうせ卒業証書が関係ない世界なんだから、同じ様な事が何か出来る所は無いかと探して見つけたのが、「東京デザイナー学院」だった。

此処はとりあえず美大とは比べ様が無い安い金額で試験も無く入学出来る。
基本も全く知らない自分には此処で十分だろう...そう思って入ったのが20歳の時(一浪していたので一つ年を食っていた)だったけれど、此処には同じような気持ちを持った人達が多数入って来ていた。
19歳の現役の学生が半数くらいで、残りは20歳から30歳オーバー迄...これは皆時代の雰囲気に影響されて「自分が何かを創りたい」と、大学をやめ、会社をやめて入って来た人々。

色々と運命的な出会いがあって、自分は陶器の製作希望で入ったはずが半年後にはグラフィックの方に編入され、「絵を描く」(イラストを描く)と言う事に一生をかける気持ちになって行った。
卒業するつもりは無かったので、授業料はみんな絵の具代にしてしまったけれど、当時のまだそれほど年の変わらない講師のF先生にお願いして、全ての「クロッキー」の授業にクラス分けを越えて出席する事を黙認してもらった。

この時に今のうちの奥さんにも出会ったし(彼女は現役)、今九州で療養生活をしている一番古い親友にも此処で出会った(ヤツは大学をやめて入って来た)。

それからは、波瀾万丈の生活だったが...43年もフリーのイラストレーター生活を続けて、今こうして生きている。

そんな時代のその編入したクラスのグループの同窓会が昨日銀座であった。
当時そこのクラスでデザインの仕事をする為に作ったグループの一員が、銀座で個展をすると言うのを機会に集まる事になったもの。
あの時クラスを越えてクロッキーを描き続ける事を黙認してくれたF先生も参加し、12~3人程のかっての若者達がほぼ45年振りに会った。
F先生がオレのクロッキーを認めてくれて、強烈に応援してくれた...あれでオレは絵を描き続ける事を決心し、無茶を今迄通す事が出来た。
その切っ掛けを作ってもらった事の礼を言えた。
当時F先生が熱く語っていた、ベン・シャーン、ボブ・ピーク、バーニー・フックス、マーク・イングリッシュ...神田神保町で洋書の雑誌を買い集め、そこに載っている彼等のイラストを見て新鮮な刺激を受け、自分のイラストの方向性が少しずつ見えて来て興奮した時代を思い出す。


みんな
いいオヤジになった。
いいオバさんになった。
...ものを創り続ける事を、まだ諦めていないものが多かった。
同じ仕事を続けているものも何人もいた。
仕事を離れても、考え方が変わっていないものが殆どだった。
...本当なら、鹿児島のあいつが一番来たかったはず、喜んだはず...




40数年前から見たら、今の年齢はもうすっかりジジーとババーのはずだけど...


多分、気持ちは
 フォー エバー ヤング


人生を語るには、まだ早すぎる。

だよな。