ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

天下の暴論...27

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久しぶりの暴論。
「ゴルフは良い人格を作るのに役に立つが、競技を始めると悪い人格になるものも多い」

昔からの「嫌なやつほどゴルフが上手い」って言葉...納得する人も多いだろう。

ゴルフってのは、始めるとすぐに厳しいゲームだという事を思い知らされる。
どんな人だってゴルフを始めた当初はミスばっかりを経験する。
ほかのスポーツで華やかな経験をした人間だって、動かないボールを打つ事には本当に苦労させられる。
絶対に思う通りにボールは飛んでくれない。
偶然思い通りにボールを打てたとしても、なぜかゴルフ場ではアンラッキーばかりが待ち構えている。
どんな努力も願いも、しばしば理不尽な結果に打ち砕かれる。
...基本的に、ゴルフってのは理不尽で残酷で無慈悲なゲームなのだ。
だから、ゴルフを始めると人間は「我慢する」「耐える」「挫折しない」心を作らなければ楽しめない事を知る。
へこたれず、めげず、「顔で笑って心で泣いて」プレーを続けなければならない。
そして審判のいないこのゲームは、インチキをしようとすればやり放題なことから、「フェアである事」「誇り高くある事」を要求される。
...だから、ゴルフを続ける事は「やせ我慢」のできる、まるで「サムライ」や「ナイト」の精神を持った高潔な人格を形成するのに役に立つと言われているのだ。
「紳士がゴルフをするのではなく、ゴルフが紳士を作るのだ」と。

が、ここからが暴論。
この「ゴルフ」が、競技としてスコアカード数字の少なさを競うようになると一変する。
スコアという魔物に誘惑されて、道を外すものが出てくるのだ。
何もインチキをするというのではなく(スコア改ざんなんてゴルファー失格の輩もいるが)、スコア重視のために卑屈になり狭量になっていく者が増えるのだ。
もちろんそういう人間もスコアが良ければ、大して害はない。
せいぜい同伴のスコアが悪い、あるいはハンデが多いゴルファーに対して、自分の方がすべてにおいて「上だ」という態度を取るか、人間ではないような存在として無視するかぐらいだから。

スコアが悪い、調子が悪いとなるとこういう輩は困った迷惑な存在になる。
スコアの悪さを、コースのせいにする、同伴競技者のせいにする、クラブのせいにする、天気のせいにする...自分自身にもいらつく。
いかにも不愉快そうな態度になり、他人のゴルフの迷惑になるという事は全く考えない。

自分のゴルフのすべては数字によってだけ存在し、自分のアンラッキーを呪い、相手のラッキーに嫉妬する。
相手のミスを願い、アンラッキーを喜ぶ。
数字の前にゴルファーはなく、数字の後にもゴルファーは無し、だ。
だが、スコアを競う競技においては、そういうやつが往々にして「強い」。
同伴競技者に気を使ったり、「紳士的」な人は概して弱い。

でも、そういう「嫌なやつ」だって、ゴルフを始めた頃は「いいゴルファー」になろうと思っていただろう。
しかし、競技で結果を重ねていくうちに、それじゃあ強くなれないと思ってしまったんだろう。
紳士的で友好的で立派だって、スコアが悪けりゃただのヘタクソだ、なんて。
そういうゴルファーは、悪い意味で目立つ。
競技の世界では、そういうやつがたくさんいると感じさせる。

だが、本当に強いゴルファーに立派な人間がいるのも確か。
数字の誘惑に負けずに、いいゴルファー足らんとして、なおかつ結果も残しているゴルファーは目立たないけど多数いる。

ゴルフを真剣にやると、紳士やサムライにもなれるが、卑劣な最低ヤローにもなってしまう危険があるってこと。
自分を顧みてみよう...「俺はいいゴルファーか? それとも嫌な奴か?」

(ん、下手で嫌な奴って...最低だな...反省します)