ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

「震災瓦礫」は「不浄のゴミ」ではない!

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テレビのニュースを見ていて、腹が立ってまたこの事を書きたくなった。
このブログは「ゴルフブログ」で、時事ブログじゃないのにね。

また、ニュースで「市民の味方」のような面をしたジジイ(と言っても俺の方が年上かもしれない)が「絶対に瓦礫の受け入れは反対です」なんて叫んで、それに周りの奴らが拍手していた。

まるで、「震災瓦礫」を汚らわしい不浄のゴミのように言って、偉そうな顔をして。

...みんな、ただ「がれき」「瓦礫」と言って、汚いゴミのように言うけれど、あの瓦礫をよく見て欲しい。
あれは、あの3月11日迄、普通に、幸せに、懸命に生きて来た東北の人たちの、その生きて来た証の残骸なのだから。
あれは、生活して来た家、いつも触れて使って来た家具、楽しみで集めて来た趣味の品、生活の記録の写真、記念品、長く伝わって来た道具、これからも伝えて行きたかった愛用品、いつも通った店、歩いた道にあった看板、使って来た車、着て来た着物、遊んだゴルフ道具....そんなものが、あの日の津波で理不尽にも、一瞬で叩き壊されてしまった、その残骸なのだ。

すべてが、そんなもののかけらなのだ。
夢や記憶や、思いや感情の染み込んだ、あの3月11日で断ち切られた夢の残骸、生活の残骸が積み上がったものなのだ。
その中には、どれほどの無念や悲しみ、希望や絶望、喜びや優しさの記憶が織り込まれている事だろう。
...あれは、絶対に不浄のゴミではない!
ただ、地震津波によって断ち切られ、壊されてしまった夢のかけらなのだから。
それは鎮魂の思いと祈りによって、静かに埋められるべきものであって、断じて安全な場所にいた知ったかぶりの、安っぽい正義感によって穢されていいものではない。

そして、その「無念の残骸達」が汚い「市民」によって反対される映像なんて、テレビで流して欲しくない。

あれは、絶対にゴミではない。
地震津波によって失われた、そこに住んでいた人達の無念と悲しみの集積物だ。
合掌して、悲しみと敬意とともに地に返すべきものだ。


原発周辺の放射能汚染の瓦礫は、全く別の問題だ。)