ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

二度目の3月11日

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東北大震災から、二年が過ぎた。

あれから少しは変わっているはずなんだけど、ニュースで見る被災地の映像は「復興」というにはほど遠い姿にしか見えない。
特に、現地で再び工場や店などを再会しようとする人たちが資金繰りで苦労し、二重債務に苦しんでいるという現実には「なぜ?」という思いが強い。
それを援助するために、日本や世界の国の人たちが義援金を送ったのではなかったか?

漁業協同組合が倒産したとか、店を再建した人が津波に流された以前の店のローンと新しく店を出すために借りたローンの返済に苦しんでいるとか...
そういうところへなぜ義援金が届かないのか?
まず、仕事場や店など働ける場所が無ければ人はそこに住む事が出来ない。
そしてあれだけの災害にあった地域に再建された店や工場が当面採算が取れないのは当然なのに、「倒産の危険があるから金を出せない」というのは、根本的に違うだろう?
また、不平等にならないように審査を厳しくしているのでなかなか現金の支援が出来ない、というのも違うだろう?

まず、スピードが必要だ。
人は働き、収入を得、ものを買い、食べ、遊ぶ。
理不尽に一瞬でかき消されたそういう場無しに、ただ我慢する2年間はつらすぎる。
家族も、住む家も、働く場も無くした人たちに最も必要なのは、多少の不平等はあっても迅速な無償の援助だ。
そういうつもりで義援金は送ったんだし、集められたはず。
日本の場合は、義援金赤十字社という大きな組織にまとめて集められたが、それで良かったのか?
アメリカでは、多くのNPOがその集められた金とその援助先を公開していて、その援助先や援助の実績を見てそういうお金を送る先を自分で決める、という。
そういう援助先や援助の方法を全て公開しているNPOが日本にもあったら、もっと義援金は有効に使われたのではないか...という思いが強い。

せっかく造り直した工場が、新たな堤防などの予定地に引っかかりまた立ち退かなくてはいけない。
そして、その費用もまた自分で払う、なんてのはおかしいだろう。
確かに災害対策には研究の時間がかかり、すぐには決められないのは分かるけれど...
日本という国土に済んでいる以上、天災に対して完璧な防御は不可能だと思う。
求めるのは、脱出・避難の方法の完璧さに特化して、防御は妥協するしか無いと自分は思うのだけど。

ただ、原発は違う。
全廃するなら、代替えエネルギーの確保の研究が全てに先行して必要だし、存続するなら念には念を入れての完璧な防御法や対処法が絶対必要だろう。
少なくとも、震災前の東京電力のような組織に任せられるものではない。
(...人類があんなものを制御できるのか、がそもそも大問題なんだけど。)


...何度見ても、繰り返し流されるTVのあの津波の映像は恐ろしい。
あの映像を見ると、「神も仏もあるものか」と感じるのが当然だろう。
一神教にあまり染まらない日本人的思考は、昔からああいう自然の姿を見てきたから、作られてきたように感じる。
いつ全てを流されるか分からない人生は、日々を感謝し、身の回りにある自然を愛し、災害を超えてきた古い樹木や岩や、変わらない山や海の景観を敬い、「そこにずっとあるもの」に「神が宿る」という「八百万の神信仰」が自然なものになったんだろう。


この2年は、まだほとんど復興していない2年だった。
もっと急がなければ、ずっと伝統をつないできた由緒ある町や村が消えてしまう。
ずっとつながってきた人々の記憶や意識が消えてしまう。
その損失は、あの津波に流されてしまったものより、もっと大きなものかもしれない。

...今ならまだ間に合う。
どうか、援助はもっともっと急いで!
そう願っている。