ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

努力は報われない...が、

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現実は、道徳の教科書通りになんてなりやしない。
凡人の必死の努力なんてものは、才能とセンスと環境と金に負けるのだ。
ただし、十年~二十年程度の数字減少競争に置いて、の話だが。
その理由は、才能とセンスと環境と金に恵まれた者だって努力はするからだ。
(それらの優位な要素に任せて怠けているものはただの愚か者であって、はなから相手にはなりゃあしない。)

それに凡人の「努力」ってのは、昔から言われている様に「トラック一杯のボールを打て」とか、「暗くなってボールが見えなくなっても練習を続けろ」とか言う「血と汗と涙の根性物語」兼「非科学的精神論」の言い伝えを守っているものが多い。
こうした言い伝えは、大概成功者の思い出話から出て来たもので、「そう言えば若い頃それほど沢山ボールを打った」とか「あんな事もしていた」なんて話を、記者が面白おかしく記事にして一般的になったものだ。

こうした思い出話が元の「努力」を凡人が真似して、真面目に必死に練習しても、殆どの場合はそれぞれのスイングを超個性的にする事にしかならない。
常に正しい方法をチェックしてくれる先生の居ない努力は、それぞれの「スイングのクセ」をより固めてしまう結果にしかならない。
それがボールを打つ正しいクセなら良いのだけれど、殆どの場合は非合理的な進歩を遅くするだけの「悪癖」にしかならない。
必死の真面目な努力が「ヘタを固める」だけになってしまう。
だから、悲しいかな練習場で静かに真面目に大汗をかいて打ち続ける大多数の凡ゴルファーは、それぞれプロでも打てない様な超個性的変則スイングでゴルフをする様になってしまうのだ。
これを避けるには、水先案内人(レッスンプロ)に頼るのが一番なのだが...それにはお金がかかる為に殆どの真面目なゴルファーはそれをしない。
後から考えれば、その後の無駄な努力や遠回りの日々に比べると余程安くつくのだけれど、目先の僅かな小遣いからその金を削れないのだ。

結局、練習場で自己流の練習をどれだけ沢山やったとしても、それがスコアに結びつく事は驚く程少ない。
ただストレスの解消と運動不足の解消と不安の誤摩化しになるくらいだ。

ところが、だ。
そんな間違った努力であっても、長い時間をかければ(勿論「プロや上級者の様に」ではなく)自分なりにボールを打つ方法を体得する事が出来る。
特別凄い飛距離や特別凄い球筋には結局ならなかったとしても、自分なりの打ち方で自分の思う方向に近い所に打つ事が出来る様にはなる。
ホールに向かった時に、自分のいく道筋が見える様になる。
それは「バーディーチャンス」や「軽くパー」なんてのがある道ではなくても、最高に上手く行くとパーがあり得る道だ。
キチンと自分の道を行けば、「上手く行ったアプローチ」や「上手く打てたパット」でパーがある道だ。
あるいはとてもパーが無理であっても、自分の道を行ったボギーが獲れる道だ。

トータルスコアなんて考える事は無い。
1ホール1ホール、自分が旅をする道を行くゴルフであり、ライバルが居るなら勝負する道だ。
この楽しみは、自分が思う様なボールをある程度打てる様になってから始まる。
いつも行き当たりばったり、ボールが1球1球どこに行くか判らないのではこんな楽しみは無い。
例え「ヘタを固める」練習であっても、ヘタを固めて出来た自分の球筋が判るからこそ出来る楽しみだ。
自分のして来た努力は、上級者にはなれずとも「自分のゴルフ」を楽しむ事には役に立つ。

合理的でない努力は、現実のこの世では漫画の様に報われる事はまず無い。
数字の競争、スコアカードの競争にはまず役に立たない。
しかし、そうして出来た自分のゴルフスタイルは、「ゴルフを遊ぶ事」をさせてくれる様になる。
年をとっても、自分なりに「旅行くゴルフ」を楽しませてくれる様にはなる。

(ただし、「カッコいいゴルフスイング」にはまずならないので、それが嫌な人は無理をしてもプロに教わった方が絶対に良い。)