ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

あっという間...

イメージ 1

今月は誕生月。
一体「自分がいくつになるんだろう」なんて思うと、あらためて愕然とする思いがある。

1949年、ベビーブームのほぼ頂点で生まれて、小学校はクラス50人以上で学年10組以上。
上も下も沢山の人間がいて、常に大勢の人数での競争があった。
日教組の教師に自虐史観を叩き込まれ、朝日新聞を読まなければ大学に受からないと言われ、入学競争・入社競争まで尻を叩かれて徒競走をさせられる。
...なんかおかしい、という思いはずっと胸にあった。

そんな時に、ビートルズが登場し、学園紛争が起き、時代が激しく動き始めた。
しかし自分は、全共闘にあまり共感出来ず、かと言って右翼思想にも共感出来ず、ビートルズにもそれほど熱中出来ず、荒れ狂う時代の流れに乗れないでいた。

感じたのは「自分は一つの思想に酔う事が出来ないし、何もかも無条件に信じるなんて事は出来ない」という事...そして、このままでもいけない、という事。
ならば、生きてる証に「何かを作りたい」と考えて、何もかも捨てるつもりで親の期待していた「一流大学から国家公務員」なんて道からドロップアウトした...まあ、頭も良くなかったし(笑)。

普通に考えて、20歳過ぎていきなり「絵を描く」なんて言って家を出たんだから、ただの馬鹿だ...当然美術の素養もなにも無く、石膏デッサンすらやった事無いのに(未だに石膏デッサンやった事無し)絵で飯を食うなんて絶対不可能な自殺行為と言える。
それなのに、なぜか運良く色々な人に巡り会い、23でフリーのイラストレーターとなり24で結婚した(よく行く末わからぬ貧乏イラストレーターと結婚する気になったもんだと、今でも奥さんを不思議に思う)。

それから40年..有名にもなれず、大金も稼げなかったけれど、本当に運良くこの年まで仕事が続いて生きて来れた。
才能があるとも思えず、自分を売り込むのも愛想を言うのも苦手で、売り込みなんて出来なかったのに、節目節目で色々な人が助けてくれた。
広告イラストや新聞イラストから始まり、小説の挿絵や雑誌のカットの仕事を経てゴルフのイラストを描く仕事に巡り会い、全く縁なんてないと思われたゴルフのプレーの楽しみにさえ巡り会った。
多い時には、当時の週刊誌3誌(ダイジェスト・パー・アサヒ)に連載を持ち、それからゴルフのイラストが仕事の中心になった。
その仕事に必要だからと始めたゴルフにはすぐに熱中し、もうゴルフ歴30年になる。

そんな風に40年も仕事をして来たのに、フリーの仕事のためについつい自分の年を忘れてしまう。
何時までたっても、自分が若い頃の感覚が変わらないのだ。
気がつくと、自分に仕事をくれた編集者は皆定年で引退し、仕事の相手の編集者は皆年下になっている。
当時若手だった編集者でさえ、もう少しで定年を迎えるという年になっている。
今編集の中心になっている人たちは、自分の娘の年齢に近い...親の年を聞くと自分より若かったりする。

だから、街を歩いていてショーウィンドウに映る自分の「老人」の姿に何時もびっくりする。
かって多すぎて始末に困っていた髪は、もう陽射しも風も遮る事が出来ず、雨の最初の一粒を誰よりも早く感じる頭になってしまった。
かって、「天狗のように空を飛ぶ」と言われた足は、地球を離れる事に大変な苦労をするようになり、その上の重さに耐えられなくなって軋み、錆び付きつつある。
男が触りに来た腹筋や背筋は、すっかり厚い座布団をかぶってしまい、腰痛まで引き起こす。

あっという間なんだ...つい昨日まで咲いていた花が、もう今日は枯れた葉を落としつつあるみたいに。

...ゴルフってのはいいものだ。
そんな気持ちも、「まだまだ」の情熱も、「もうそれなりに」の諦めも、「負けてたまるか」の根性も、「俺はこんなもんじゃない」の怒りも、人生よりもすっきり具体的に何回でもチャレンジ出来る。
武器を替えて
スイングを替えて
気持ちを替えて
言い訳を替えて

ダメならまたやり直す。
ゴルフってヤツは人生が終わるまでそんなトライを楽しめる。
だから、そうしてゴルフがやれる限り、人生は捨てたもんじゃないって思える。


...さて、諦めない自分は明日、変態スイングと新兵器(中古だけど)ドライバー2本と2番アイアンの試打ラウンドに行ってくる。
(先月のオープンコンペの参加賞の優待券使用(使用期限20日だった)で、安く出来るので。)
それで新兵器の見当ついたら、24日に月例参加するつもり。