ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

ゴルフ小説挿絵...7

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サトルさん( http://blog.golfdigest.co.jp/user/woodhouse/ )のゴルフ小説「サドンデス」最終回の挿絵です。
是非、彼のブログを見て下さい。
「ゴルフ小説」という日本では不毛の大地に、花の咲く日が来ることを期待します。

ゴルフの本についての考察を書いているうちに、自分の中の「ゴルフ」に対する反発とこだわりの元が明確になってきた。
30代半ばにゴルフを始めるまでは、「ゴルフ」というものに非常な偏見を持っていて、「絶対に俺はゴルフだけはやらない!」と決めていた。
その一番の理由が、「妙に似合わない浮世離れした格好で、運動とは縁もゆかりもないいかにもお金持ち風のおっさん達が、妙に取り澄ました態度でお互いを褒め合いながら、棒きれでポコンぽこんといかにも当たり損ねの球を打ち、気取った態度で広い野原をのんびり召使いを連れて散歩している」風景をテレビなんぞで見たことがあったから。
それは自分の周りで働いている普通の人々の感覚とはかけ離れたもので、「あんなものが許されるはずがない」って、思いこんでいた。

だが、ある人の紹介でゴルフダイジェストの仕事をやるようになり、続けて仕事が入るようになると、自分でもプレーして「ゴルフ」自体を知らないと仕事を続けられなくなり、やむを得ず(不本意ながら)始めることになった。

そして、始めて見たら、「ゴルフ」というゲームのなんという奥深さ、面白さ、潔さ、なにより上手くいったときの達成感、失敗したときの屈辱感、全力(全人格というのか)で戦わなくてはいけない難しさ...あっという間にハマりこんでしまった。
それからずいぶん時が流れて、ゴルフに飽きもせず、ますます深く関わるようになっている自分がいる。

そして今では、あの頃反発をし、食わず嫌い(やらず嫌いといった方が良いのか)の原因となった人達は、名門クラブの優雅な方々の優雅なゴルフの姿だったと判っている。
心のどこかに、あの頃の反発は未だに生きているのだ。
自分がハマり、熱中したゴルフは、やはり彼らのゴルフとは絶対違う、と感じているのだ。
それが時々顔を出す。
それが「正当」なものかもしれないが、「上品」で「優雅」で「エスタブリッシュメント」で「貴族趣味」で「浮世離れした」あのゴルフの世界に、俺は「でも、違う!」と思ってしまうのだ。

それは、オープンコンペなどで出会う沢山のゴルファー達の生き方や、ゴルフに対する向き合い方を見るたびに、俺の確信に変わっていく。
普通に仕事をして「ゴルフ」を楽しむ普通の人々のゴルフは、「名門」から降りてくるものではなく、「こちら側」で作り上げていくものだ...あちら側とは関係なく、いたわりと優しさと尊敬とともに。