ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

「市民」という名の、下衆な人達

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先日、愛知県の日進市という所の花火大会で、福島の花火を応援のために打ち上げる予定だったのが、「市民20名」の抗議で中止したというニュースが流れた。

花火が放射能の危険があるから中止...市民20名の抗議で。
同じようなニュースが、もう何回あっただろう。

京都大文字焼きで、薪に放射能の危険があるからと、「市民」20名の抗議で中止。

福岡で福島支援ショップを開こうとしたら、搬入のトラックが放射能をまき散らすからと、「市民」20人の抗議で開店中止。

みんな「市民」20名程の抗議で、自治体が中止だ。

この「市民」。
およそ考えられないような理由で、何が何でも福島からは何も入れさせないという姿勢。
科学的であろうとなかろうと、絶対に自分の所に東北のものは来させない、という姿勢。
感じるのは、モンスタークレーマーと同じ臭い。
きっと、隣に東北の人間が越して来たら、自治体に気の狂ったように抗議して追い出すことなんかもするだろう。
隣の席に座られたら、酷い剣幕で自分から離れろとか言うんだろう。
自分がその何百分の一でもそれに近い目にあったら、それこそ壊れた機械のように、理屈なんか無視して大騒ぎするんだろうけれど....他人の痛みなんぞ、絶対に判ろうとしない下衆な奴ら。
こんなわずかの数のおかしな人間達の抗議で、あっさりと中止を決める市の人間達も、結局同じような人種だと思うしかない。

このしつこく抗議する少数の「市民」という存在。
その街に居る何万人、何十万人かの普通の人達の中の、たった20数人の「抗議する市民」という存在。
まるで疫病神か悪質な細菌のような、周りを日本を汚し穢して行く存在。
こういう、うさんくさい「市民」のために、日本が、人の心が壊され、汚され、憎しみが増殖して行くことを憂慮する。
こうした、おぞましい少数の「市民」の声が、その地区の代表する意見となることを憂慮する。

「市民」の看板の後ろに隠れて、自分だけ良ければいいなんて意見は聞く必要はない。
この「市民」の姿勢には、無知で鈍感で品性下劣な人間が「自分が正義」と勘違いしている嫌らしさがある。
だから「市民」という言葉が、日に日に汚くおぞましい言葉になっていく。

...そういえば、この災害をどうにも出来なかった以前の責任者も、「市民運動」出身だとか言っていたっけなあ...

放射能反対は当たり前。
福島をこうした責任は明らかにしなくてはいけないし、今のこれからの放射能の実態を明らかにさせなくてはいけないし、何より汚染された地域に住んでいる人の救済と治療は優先して行わなければならないと思う。
今のままでいいとか、今までやり方がいいなんて全然思っていないのは当たり前。
もっと早く国全体で動いて欲しいと切に願っているのだけれど..
怒りは政治に向けるべきで、被災地の人やものを疎外することじゃあ絶対にない。)