(久しぶりの松村博士の記事です。この記事の著作権は全て松村博士に所属します。)
ゴルフ史にはどういう事なのか顛末がはっきりしていないが、記録には残っている事柄というものが沢山ある。
特に本邦の戦前ゴルフ史などというものは、資料が残っていなかったり、研究する者達の派閥対立から扱われるべきものが軽視される事例もあり、本流以外の事柄の抜けが著しい。
筆者のノートにも依然見つけたものの正史に出て来ず、周囲も注目しないで『…??』となったり、状況からかなり怪しいけれども新事実というには証拠が少なく頭を悩ましたり、仮説でとどまっている事柄がいくつか在る
戦前のゴルフ界において技術やコース設計の向上を始め、プレーヤー・識者として大きな貢献をした赤星兄弟の四郎・六郎。彼らが携わった各項目で書き物が幾つもできる位の足跡を残しているが、彼らはアメリカ留学中にゴルフを覚え、それを日本に伝えている。
そんな二人、特に四郎の留学時代のゴルフが今回の話だ
六郎が留学中の1924年春にノールカロライナ州のパインハーストで行われた春季トーナメントに優勝して内外ゴルフ界に衝撃を与えたことは、本邦ゴルフ史上よく知られている。
(ちなみに六郎はこの年のメトロポリタンAmでも準々決勝に進出している)
彼は立派な体格であったが、体が丈夫でなかったので激しくないスポーツであるゴルフに打ち込んだというが、毎日数百球の打ち込み(各クラブでその数とも)+ラウンドをするなど、その熱の入れ方はすさまじいもので、ゴルフ部員でないけれども部員用宿舎に寝泊まりしていたとか、難コース、パインバレーGCのメンバーであったとか、プロとしょっちゅう回り技術を吸収したとか、いろいろ伝説が残っている。
とにかく百般の知識や技術はアメリカで培われたものであった
一方兄の四郎はアメリカ時代そこまでゴルフに熱心で無かったという。
本人曰く、ペンシルヴェニア大学に留学時、夏季休暇にゴルフ俱楽部に入ってたまにプレーをしていたが、打ち込んでいたフットボールで左手を挫いてしまい、以降中断をしてしまった。
ケガが治ってから、今まで運動していたのにしないのは宜しくない。という事でゴルフを始め(再開)たと回想している。
しかし、気が向いたときにチョッと行う程度や、ぶっ通しで1~2週間行うなどムラがあって、『一生懸命でも無く運動がてら』であったという。
1921年に帰国したが、四郎はゴルフを止めることはなく、長兄鉄馬(ブラックバス移植と釣りで有名)が会員である東京GCに通い、クラブハンディは10となるも(後のオフィシャルで15位と談)、ここからトッププレーヤーになる道は平坦でなかった。
というのも同年の暮れに兵役となり、1923年4月の除隊までブランクが出来てしまったのだ。
(近衛師団に属したが、1922年の摂政宮とプリンス・オブ・ウェールズの親善マッチの集合写真に坊主頭にスーツ姿の彼が、同じく坊主頭な3番目の兄の喜介と共に写っているので、特別休暇で出席したのか、政財界の大物らが会員である東京GCに関係していた事と近衛師団所属が影響したのか)
それでも正しいヒッティングの練習として、部屋の中でいろんな位置から椅子の上にチップショットでボールを載せる練習(後年六郎が雑誌に紹介)や、ネットを庭に張り打ち込むなど努力に努力を重ね、1924年10月の日本アマチュアではプレーオフに残ることが出来たのだから、やはり並のゴルファーでは無かった。
友人・先輩・ライバル達は彼が帰国からトッププレーヤーになるまでの経緯を鑑みて、努力系のゴルファーで在った事を語り残している。
その四郎がそれほどゴルフに熱心でなかったというアメリカ滞在中にトーナメントに優勝した記録があるのだ
その昔、2005~07年頃であったか、筆者はロサンゼルスのスポーツ財団LA84Foundationホームページのデジタルライヴラリーでヒッコリー~初期スチールシャフト時代のゴルフ雑誌、『American Golfer』や『Golf Illustrated』を読んでいた。
(現在は著作権問題か何かで閲覧できる年代や量が減ってしまったが、当時は蔵書のほとんどが見られた)
多分、1931~32、35年の渡米プロ選手団の記述や在米邦人ゴルファーの記事がないかとJapanないしJapaneseのワード検索をしたのだろう
そうしたら検索結果に『American Golfer』1921年4月9日号P29『Mrs. Hurd Retains Title』という記事が上がった(同デジタルライヴラリーでは雑誌丸ごとではなく各記事がPDF化されているのだ)。
※セカンドフライトとは本戦予選落ちした上位陣達で行われたマッチで、(16位までが本線進出ならば、17位からの定数該当者が進出者になる)大会規模によっては第五~六フライトまであったりする
当時の筆者は『へぇ……』と感じるくらいで小さなトーナメントに勝った程度の認識であった。それでも『この記録は何でしょうか』と、前JGAミュージアム委員参与故藤岡三樹臣氏に記事のコピーを見てもらい、2010年代初頭には四郎が会員であった東京GC資料室にも報告していたが。特に進展はなかった
それが2017年に入り、JGA資料室で四郎の弟の六郎がフロリダのトーナメントに勝ったとする戦前雑誌の記事(『Golf(目黒書店)』であったのだが号数と記事名を失念)を目にした事から、『以前見つけた四郎の事柄と関係あるのだろうか』と気になり。再確認のため資料室にある1922年版『Spalding Golf Guide』掲載の地区競技記録を調べると『Shira Akahoshi』名義であるがこのトーナメントの事がキチンと記載されているのを確認した。
そして後日お付き合いのある現JGAミュージアム委員参与の武居振一氏にJGAでお会いした際に『American Golfer』の記事と件の『Spalding Golf Guide』を確認して頂いたが四郎が優勝したことを報じるもので間違いがないという。
それで試合がある程度の大きさであった事と四郎がセカンドフライトに優勝した事を再確認できたのであるが、不思議な事に四郎は戦前座談会等でこの事を一切触れていない。
武居氏は優勝と言ってもセカンドフライトであった事から、弟の戦績と比べて恥ずかしかったのでは。と考察されたが。きちんと記録されるべきだと筆者は考える
しかし、この2つの四郎の優勝記事で気になるのは彼が“プリンストン大学の若き日本人生徒”と書かれている事だ。彼はペンシルヴェニア大学に在学しており、プリンストンは弟の六郎の在学していた大学だ。これはどういう事なのであろうか…
考えられるのは
1:四郎の在籍大学を記者が間違えて記した
2:六郎が優勝したのを記者が兄の四郎と名前を間違えた
3:四郎は学業の終盤プリンストンに在籍していた
の三つであろうが、四郎六郎共にこの試合の事を触れていないので、四郎のキャリアの初めの勝利であるのか、それとも六郎のもう一つの勝利であるのか、真相は闇の中である。会場のSt.オーガスチンCCに何か残っていればよいのだが。
―了―
文中未記載の主な参考資料
・『Golf Dom』1930年11月号 ゴルフ座談會の記(4)』
・『Golf(目黒書店)』1932年2,3月号『ゴルフ座談會』
・『1925 Spalding Golf Guide』