ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み(イラストレーター渡辺隆司のブログ)

なるようにしかならないけど、それが人生...せめて酒に唄って行きますか

掘っくり返し屋のノート『ミステリー 雲仙 GL 新コースの謎』

 筆者は調査・研究しているジャンルに関する物品の収集癖がある為に、六畳+αの自室が布団を敷くスペース以外無い“床が抜けかねない”倉庫の様になってしまって居る。
ヒッコリークラブ、書生節(バイオリン演歌)史料及び SP(蓄音機用)レコード、ゴルフボール、ゴルフ古書・雑誌およびそのコピー等々。(更に押し入れには 2018 年の畳・床板張替え時に仕舞ったきりの音楽と釣り・魚関連の雑誌書籍が…)
 と云っても、そういったコレクター達特有の、“熱中(欲しさ)のあまりオカシク成ってしまう”。という事態に成らないのは有難い事だ。
これは筆者が文無しなので“その範囲で”と金額を決めているのと、研究と実演の為に集めている事が関係しているのだろう。


 文無しには文無し特有の収集があり、ゴルフボールもリサイクルショップで集め出し
(元々ヒッコリーゴルフを本格的に始める際に糸巻きボールが必要で探し回った時に色々な銘柄のボールを入手したのが始まりであった)、書籍も中学生の時に地元ブックオフで1970~1990 年代のゴルフ書(非レッスン)が 100~300 円で投げ売りされていたのを棚に並ぶたびに買って短期間に十冊近く集まったのが始まりであった。

 


 現在は戦前期のゴルフの紙物を古書即売会等で集めている。と云っても、ゴルフ書籍や雑誌ではなく(こういった物は高額且つ古書業者さんの競り市でもまず出てこず、直接買い付けや持ち込み買取りになるようだ)、写真絵葉書や旅行案内・パンフレットの類だ。これは一つ 100~500 円で手に入るのと、他の題材に比べ数が無いので沢山出て来る事が無ければ懐は痛まない。
 比率としては、葉書は数百枚の山から 1~3 枚位(年に一~二度 7~12 枚)、セット(8~16枚組袋)物では数十分の一の割合でチョコチョコ出てくる。
見つかる物としては、ゴルフ場が発行していた物や大正期のモノはまず出て来ないが、観光地・保養地であった箱根、伊東(川奈)、洞爺湖、軽井沢、那須、別府、六甲、そして雲仙にあるコースの写真が出てくれるし(戦後では大島、南紀等)、後のゴルフ場に成った場所や関連地の物も在る。
 ※なお上記のセット物は大体¥500±300 で、ゴルフ場発行の物以外は一袋に 1~2 枚ゴルフ場の写真が入っている割合だ。(比率については専門店の方も同様のことを言われていた)


 珍しい物ではゴルファーが書いた手紙なども存在しているが、筆者は東京の人物が小樽メンバーからの塩鮭の礼状にゴルフ合宿に行った那須 GC の絵葉書を使った物(ネットオークションで入手)、青島でプレーした人物が東京の息子に送った現地絵葉書(コースではないが写真の部分で、矢印の位置に“ゴルフ園”がある事を書いている)を偶然入手できた。


 紙物は絵葉書よりもゴルフに関係する物のエンカウント率が大きく、これは主に箱根、伊豆、別府等の観光地にゴルフ場が隣接している所の刊行物にゴルフの記述が在るのだ。
 内訳をすると、今の JTB が出していた各地方の旅行ガイドやその書籍版、大正期の鉄道案内、昭和期の温泉案内なども注目すべきモノであり。地図では正式な測量図から雑誌付録モノ、イラスト入りのモノ(こういった物にゴルフ場の記述がある)も馬鹿には出来ない。
 一番多い大小パンフレット類は、精密な或いは名の在る画家の書いた鳥観図付きガイドや朝鮮・満州モノなどは数千円から数万円するので筆者のお歯には合わないが、稀にそのグレードの 1~2 ランク下の物が数百円~千円位で入手できる事があるので、未見の物を求め探している。

 


 これ等の『紙モノ』の中で入手量が多いのが雲仙モノだ(次点で箱根の鳥観図入り旅行・交通案内)。
同地は国立公園制定以前、明治期から日本を代表する保養地・観光地として国内外に知られており、1923 年に日支(日華)連絡船という 24 時間ほどで上海-長崎間を結ぶ定期航路も開通し(翌年から神戸-長崎間も開通し、国内旅行客によって更に栄える)国立公園と成ってからも、というよりも戦後ゴルフコースがあちこちにできるまで九州を代表するゴルフ場であった為、必ず観光の紙物に記載や風景が描かれているのだ。


 それを証拠に筆者の手元には 1930 年代から 1970 年代頃までの雲仙の写真絵葉書セットが二十種類近くある(しかし残念な事に大正期のモノが“相当数刷られているのだが”殆ど出てこない)
観光案内は、先述の通り名の知れた画家が鳥観図を担当した上等な物や豪華な大判モノは非常に高くなっているので筆者は入手出来ていないが、数百円のモノから一万数千円の物の殆どは表紙にゴルフ場(のツツジ)やゴルファーの絵が記されている。(絵葉書セットの袋のイラストや写真も同様)

 


 前置きはここまでとして、本題に移ると。それら雲仙の観光案内モノの中に非常に気になる記述が出てくるのだ。


 まず雲仙ゴルフ場のあらましを書くと、1910 年に長崎県内務部長によって発案され、翌11 年に始まった雲仙温泉周辺の公園化計画の一環で、観光客用のレクリエーション施設の一つとして県営のゴルフ場が温泉地近郊の“池之原”と呼ばれた周囲を山に囲まれた馬の放牧地に造られることになった。
 ここには(1930 年編纂の『雲仙ゴルフ場沿革』に“数十年前から”と地元古老が述べている事から)1870~90 年代には外国人らがゴルフをしていたという伝承があり、コースの設置の後押しをした倉場富三郎やその父親のトーマス・グラバーも以前から行っていたのでは。と考察されている
 そして設置にはアメリカ領事カール・F・ダイクマンと香港上海銀行支店長 C.W・メイ、そしてグラバー商会出身者による商社ホーム&リンガー商会の役員の J・バックランドと B・ウォーレス(1913 年版『The Japan Directory』を見ると、前者の勤務している会社には同じ役職に J.H. Wallace という人物が就いているが、これは後者の親族か、或いは実際はこちらが正しい名なのか、はたまた誤植か)の四人が立案者だと云い、
 また後者二人の同僚に T.A. Glover=トーマス・アルバート(もしくは淡路屋)・グラバー=こと倉場富三郎が居たので(彼は個人でも事業をしていた)、やはりグラバー親子経由乃至現地在住の外資系商社マンらによってゴルフが注視されていたのだろう。
 ※英国系企業が在ったインド~中国間の国々では可也早くからゴルフが行われており、コースの有る都市で勤務していた少なからぬ面々が転勤で来日し、神戸 GC や NRCGA の会員に成っていた事から、ゴルフ場の無い長崎に来た者達にとって保養地の雲仙の放牧場は、保養に訪問した際にゴルフをするのにおあつらえ向きの場所であったのは間違いない。

 


 雲仙 GL に就いて定説では 1913 年 8 月 14 日の開場であるが、その前年の 1912 年 8 月に山下の温泉・海水浴地の小浜で発行された島原半島の観光案内本『嶋原半嶋風光記 : 附・小浜温泉案内(関善太郎編集、大黒屋発行)』にはコースがある程度できていたらしい記述があるが(紹介文に“今年か来年夏頃には来訪の外国人らによるゴルフ大会を計画しつつある。”旨が記されている)、正式な開場は先述の通りで、その年には県が外国人観光客向けの立派な冊子(表紙は矢岳を背景、手前にヤマユリが咲いている中、婦人ゴルファーがボールを打とうとしているのをキャディが見守っているというものだ) 『Unzen NagasakiPrefecture Japan』を出して、ゴルフ場についてもヤーデージ付きできちんと紹介している事から、その期待が大きかったのだろう。


 しかし、当時の日本人にはゴルフになじみが無かったのと、放牧場と併用で在った故のコースコンディションの悪さやカラスのボール攫いなどから来場者が激減し(1919 年には僅か 16 人!)苦境に陥るも、1921~23 年前後(時期について 1921 年頃=1923 年 8 月伊藤長蔵の現地での聴き取り、1922 年 10 月=1923 年 5 月末に長崎 GC 会員 Y.H 生が『Golf Dom』に寄稿したレポート(9月号掲載)、1923 年 5 月 8 日=『日本のゴルフ史』の 3 通りの説がある)に倉場ら長崎市内の名士を中心とした長崎 GC の結成と、会員や公園主任によるコースの整備と改修、1923 年の日華連絡船の航路開通も有って盛り返し。この年 8 月の伊藤長蔵・大谷光明・井上匡四郎(後 JGA 会長)等の訪問レポートの『Golf Dom』掲載(1923年 10 月号)も相まって広く注目がされ、1924 年に大阪毎日新聞寄贈のカップ(後にアザレアカップと呼ばれた)に関する相談を受けた伊藤ら関西ゴルファーやプロの福井覚治の来訪によって競技が始まり、これは 1927 年に始まった雲仙国際ゴルフ大会(現在の同名の競技の回数に就いては戦後の復活時からのカウント)に於て国際観光局寄贈の最優勝者賞牌とともに日本人のベストスコア賞杯として使われた(中部銀次郎の父親も 1937 年に優勝している)


 更に 1926 年には上海から三度目の来日をしたスコットランド人プロのデヴィッド・フードによるコース改修が行われ(小型の 2 グリーンと成った事や 2 ホールの短縮以外は現在も当時のレイアウトの原型が残っている)、毎年夏季休暇を雲仙で過ごしていた関西ゴルフ界の重鎮高畑誠一の激賞とアドヴァイスなどもあり、保養地のゴルフ場として国内外に広く知られ、1930 年代の頃にはシーズンに成ると保養で訪れるゴルファー達で賑わったという。


 そんな雲仙であるが立地の関係で 9 ホールのコースであった事や、山上に長期逗留は良いが長崎市内から毎週末通う際の交通の不便から、大正末期には長崎市内との中間点である諫早に長崎 GC がコースを造っており、戦後にも雲仙コースを 18 ホールにする動きが在ったが、敷地に 16 ホールしか造れない為にコースは 9 ホールのまま留め置かれ、それにショートコースの併設が為され現在に至っている。
話を戻そう、筆者がコロナ流行前に入手した、雲仙観光協会が 1934~35 年頃に出したパンフレット『雲仙国立公園』のゴルフ場の紹介文に『池之原に九コースのパブリックコースがあるが、昭和十年から一部を練習場に残して、論知原に十八コースを使用する。グリーンは何れも高麗芝。』という記述があるのだ、
 このパンフレットの裏面には島原半島とその周辺の鳥観図があり、ゴルフ場のマークも付いているのだが、お恥ずかしい事に筆者はこれがお経や過去帳の様な折りたたみ形式と思い込んでいて(水濡れ痕が在るので余り弄らなかったのも関係している)一枚に開けることと裏面の地図の存在を、昨 2024 年にネットオークションに出ていた同一のもので知ったのだ(2024 年 11 月に古書即売会でもう一つ入手、こちらは濡れ痕が少ないが各折り目が裂けている)


 コースの地図については、上記の裏面を知る以前の 2023 年に、オークションに出ていたもっと精密に書かれた別の鳥観図式パンフレット等で見て(それまで先述の 18 ホールのコースを長崎 GC諫早に造った方の事だと考えて余り疑問視していなかったので)『山下の諏訪池辺りにコースがあったのか』とびっくりしたのだ。


 これを知った当時は『雲仙国立公園』を紙物コレクション箱(おかきの大箱)に仕舞い込んでいた為に正確な場所が判らなかったので、雲仙に何度も訪問されている(筆者は 2016年に『雲仙ゴルフ場沿革』の行方を捜すために雲仙 GL に問い合わせをする際に氏に紹介をして頂いた)JGA ミュージアム委員参与の武居振一氏に意見を求めた際、『山畑いこいの広場ではないか』と述べられていたが、改めて『雲仙国立公園』の地図(他の鳥観図では諏訪池に近い図なのだ)と地名から見ると今の南島原市北有馬にある『エコ・パーク論所原』から南にかけての地域に造られていた模様である。
 ※現在地名は論所原=ロンショバル=が正しく、『雲仙国立公園』と後述の JTB の書籍以外はそちらの表記になっているが、“論知原”については後述する戦前期の呼び名“ロンジバル”の当て字であろうか)


 論所原は高原地で在る事が当時の書籍や現在のガイドに書かれているが、筆者は現地へ行ったことがないので詳しい事が述べられないものの、先述のパンフレット『雲仙国立公園
内の観光案内に記されている幾つかのプランの一つ、『雲仙国立公園廻はり』の 5 日目(最終日)に『諏訪池清遊後乗馬又は徒歩にて論知原ゴルフ場、矢筈展望処札の原を経て雲仙温泉着』とある。 


 一方、雑誌『国立公園』1940 年 8 月号で雲仙の公園事務所々所長でコースの整備に長年携わっている園孝治郎が寄稿した雲仙公園のレポートには、『又別に雲仙温泉南方約一里の地域に十八ホールノゴルフ場を新設する計画あり(P28)』と述べられているので、完成していなかった様だ。
 筆者手持ちの『雲仙国立公園』は発行年が記されていないのだが、同じく所蔵の日本旅行協会(JTB)発行の『旅程と費用概算』昭和十四年(1939)版にも雲仙の項における南雲仙の紹介(P876)に“論知原ゴルフ場”が出て来るので、完成はしないものの数~9 ホールは存在していたのではなかろうかと考察した。
(追記=国会図書館所蔵の同書『昭和十年年版』(P663)、『昭和十三年版』(P876)にも同じ記述がある)


 しかし、この文章を仕上げる際に手元にある雲仙の写真絵葉書のセット達を出して、このコースや近隣の写真がないか該当時期発行のモノを確認してみたが、どれも国立公園の敷地内の写真がメインで、南部である論所原の物は含まれていなかった為、写真としてのコースの確認はできず、また太平洋戦争開戦前後の 1941~42 年にかけて『Golf Dom』でリレー式に掲載された戦時下における各地ゴルフ場からのレポート『コース便り』に於ける、園孝治郎からの雲仙に関する寄稿(1942 年 2 月号)にはこの新コースの事は一切触れられていない。


 この全然記録がない新コースについては、『造園研究』14 号(1935 年 7 月)掲載の田中通夫『雲仙の自動車道路』内の矢筈展望所の紹介で『この展望所は論所原ゴルフ場計画が実現すれば更に重要性を増すのであるから、(P34、※原文では論所原にはロンジバルとルビが降られている)』との記述があり、 更に 1936 年に長崎県が編纂し同県水産会が刊行した『長崎県案内』の雲仙ゴルフ場の紹介の中で 『~此のゴルフ場は諏訪池自動車道路の沿線論所原(ロンジバル)に移転し、約三十万坪の地域に十八コースを設ける計画であり、昭和九年度中には完成して登用第一を誇るに至るであろう。(P139)』 (※巻末の県の統計表は『昭和九年 長崎県勢概要』とあるので編纂はこの時から始めたのだろう)とあることから 1930 年代に入った頃には計画が取りざたされていたと考えるべきか。
 ※1937 年に日本書房が刊行した『日本地名大辞典 第 1 巻』の雲仙の項でも新コースの計画が記されている(P900)  

 


 上記の資料を見つけてからは調査に進展が特にないまま、この文章も塩漬けになり。別件の調査や、九割八分手作業の“ロングノーズ”や”過渡期“のウッド造り等で時間が過ぎて数カ月。2025 年5月の下旬に入った頃に、JGA ミュージアム委員参与の井手口香氏から論所原コースの図面が在った事を教えていただいた。


 氏とはコロナ前にヒッコリーゴルフ関係で知り合ってから時々互いの研究のやり取りをするのだが、筆者が今年の初めに、氏も雲仙の事を調査していた所から論所原コースの話をして、氏が九州出身の方なので、同地をご存じかと質問をするとともに『若し、向こうに行く事が有って現地を観る様な事があったら(地形などの)状況を教えてくださいまし』と話した事が在ったが、その後氏が長崎県立長崎図書館郷土資料センターで同館所蔵の雲仙公園事務所が保管していた公園及びゴルフ場の史料を閲覧に伺った際に“それ”が在ったのだという


 ※筆者は 2016 年に『雲仙ゴルフ場沿革』の所在を探して同館に問い合わせて以降、所蔵資料に就いて時々“複写を申込するのならばどこからにしよう”とデータベースを調べていたのだが(当初は複写費用が掛かるので、それが安くなった近年は別の事の調査で申し込みが後回しに成り続けて居る…)、当時から昨年までの間、何度も検索をしているのに筆者はこれに気付けなかったのはなぜなのか?検索ワードの問題か、或いは上で書いたように諫早の物と混同してスルーしていたのか…


 以下は井手口氏の御許可を頂いてその時の話を記すが、氏曰く、記述がないので設計者が誰か解らなかったのと、資料は(データベースに”一式“とある様に)結構大きい物を始め様々なヴァージョンの図面があり、可なり劣化していて中性紙に挟まれて保管されていた事、所蔵されてからのこれまでに閲覧する者が殆ど居なかったであろう事とコンディションの状況からか、”来場者でないと閲覧できない旨を云われた“と仰っていた。
(つまり遠隔複写が不可という事だろうが、その一方“来れば自由に見せてもらえる”との事であった) 


 そして我々は何故この場所にコースが造られ、それは誰の手によるものなのか、どの様に立ち消えたのかを話し、上記の雲仙公園事務局か地元観光局の肝煎りで造られたのではなかろうか。という仮説を付けたが、それが正しい場合は雲仙のコースの改修や整備に携わっていた園孝治郎が設計に関わっている若しくは長崎 GC 会員で、入会時に(園と同時期にとみられる)雲仙コースの整備改修を手掛け、のちに諫早コースを設計した内田林市(入会前にアメリカでコースを造った経験があるという)が行っている可能性もある。と筆者は考える。

 


 論所原コースがキチンと開場せずに立ち消えていった事について、筆者としては時局
が影響していると視るべきと考える(井手口氏にもそれを述べた)。
 1930 年代後半は各地でゴルフ場の新設計画が在ったのだが、日中戦争の勃発と泥沼化による諸般の問題及びゴルフ白眼視が強まる世相からそのまま立ち消えたり計画を断念せざるを得なかった話が各地に残っている。 (筆者の手元にも 1934 年頃から計画立てられていたものの、立ち消えた南紀白浜のゴルフ場について記されている戦前期の葉書型パンフレットと予定地の写真絵葉書=二つともその場所が違うのだ‼=がある)


 とはいえ論所原コースは 1934 年頃から計画が挙がり実際に図面まで残って、更にゴルフ場として観光用鳥観図とそれに関係する刊行物に記されているのだから、先に述べた様に1940 年までに幾つかのホールが造られ、プレーをする者達が居た可能性も捨てきれない。 しかし(筆者が見る限りであるが)ゴルフ雑誌にも出てこず、上記史料で僅かに触れられている以外の記述しか見当たらない現時点、新事実が発見されるかは今後の調査に掛かって来るであろう。


 なお、井手口氏が閲覧し撮影をした図面各種に就いては。氏が発表をきちんと行う事を述べられていたので(公開手続きが必要な資料館蔵のモノであるので、筆者は現時点では拝見出来ない)、編纂を担当されているゴルフペディア上で公開されることを筆者は愉しみにしているし、読者諸兄も期待されてほしい。
 また筆者もこの歴史の皺に埋もれたコースについて、何らかのキチンとした記述の有る史料を探すために紙モノ探しを続けて行きたい。
               

                               —了—
                      2024 年 12 月 14 日~2025 年 5 月 30 日記
 

 

主な参考資料
・『雲仙国立公園』(パンフレット) 雲仙観光協会 1935-41 年間?
・『雲仙池の原 100 年の歩み』 ※ 雲仙ゴルフ場の御好意による
・『日本のゴルフ史』 西村貫一 雄松堂 1995 復刻第二版
・『和白 30 年史』 福岡カントリークラブ 1982
・『九州ゴルフ連盟十年の歩み』 九州ゴルフ連盟 1980
・『長崎と上海 : 日華聨絡記念 長崎上海番地入地図』 大坂朝日新聞 1923
・『日華大観 : 日華聯絡紀念』 加藤卜堂 東洋之魁報社 1923
・『長崎県案内』長崎県編纂 長崎県水産会 1936
・『日本地名大辞典 第 1 巻』 日本書房 1937
・『造園研究』
14 号(1935 年 7 月)田中通夫『雲仙の自動車道路』
・『国際観光』
1937 年 10 月号 P59
・『国立公園』
1940 年 8 月号 P25-29 園孝治郎『雲仙国立公園の沿革と其の施設現況及将来』
・『旅程と費用概算』 日本旅行協会(ジャパン・ツーリスト・ビューロー
昭和十年度版 1935 昭和十三年版 1938 昭和十四年版 1939
・『Golf Dom』
1923 年 9 月号長崎ゴルフ俱楽部 Y.H.生『温泉通信』
1923 年 10 月号 P22~27 C.I.(伊藤長蔵)筆『温泉コース訪問記』
1924 年 6 月号 P22~24 C.I.(伊藤長蔵)筆『雲仙行』
1927 年 8 月号 P25 長崎ゴルフ俱楽部『長崎通信』
1928 年 9 月号 P28~30 S.I.T.生(高畑誠一?)『雲仙のコース』
1942 年 2 月号 P54-57『コース便り〔雲仙-撫順-元山〕』より、園孝次郎『雲仙』
・『全国ゴルフ場案内』1935・37・38 年分 ゴルフドム社(付録)

 

以上、資料は JGA 旧本部資料室・国会図書館で閲覧及び、筆者蔵書、雲仙ゴルフ場の御
好意に依る。
そして井手口香氏の情報提供に感謝いたします

 


(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)