
2:
卒業から就職とゴルフに出会う前の村上伝二の足取りについては、本人の回想と遺された記録には幾分齟齬が生じている。
村上の晩年の回想を基に各種記録をすり合わせると、第一次大戦によって急速に発展する事になる山下汽船(現商船三井)に入社し、神戸支店に配属されたようで、その頃も社会人野球で活躍していたが、大正の初めにロンドン出張員の先輩宮田忠也から、『野球の選手をしてる位だからゴルフも上手くなるだろう』とゴルフ道具一式(ハーフセット)をプレゼントされた。
村上本人も、“野球は楽しいが何時までも出来る訳ではないし。”と関西に当時あった三つのコースの一つ鳴尾(GA)に入会し、やってみる事にした。
当時同地で働いていた福井覚治が1922年時に『阪神ゴルフ』に寄稿した回想録によると、村上は第三期生というから、その入会は1916年頃とみられ、事実同年10月16日付の会員兼ハンディキャップリスト(『日本のゴルフ史』P389および鳴尾GCホームページのHistory の1904-19の項『鳴尾ゴルフ・アソシエーションに集った関西ゴルフの草分けたち』に写真が掲載)に追記の形(手書き)で“D. Murakami”の名がある。
しかし、同時代のプロ宮本留吉は、村上が山下汽船のライバル企業であった内田汽船に勤めていた。と著書『ゴルフ一筋』で回想しており、『実業の日本』1920年6月号掲載の有名野球選手達のその後を紹介する記事でも、“しばらく共同火災に入社していたがその後神戸の内田汽船に勤務している”とあった(P64)。
後者の記事の発見から、宮本の述べていた話が正しいかと思ったら『海運うら外史第一巻』に掲載の“山下学校”こと山下汽船の大正7(1918)年4月時の社員配置一覧の中に、神戸本社の貨物課出貨係として村上伝二の名が記載されており(P450)、同年12月1日時の配置では経理課に配属されている(P455)。
そして先述の『実業の日本』の記事から一年半後の大正10(1921)年12月の社員配置にも本社貨物課に彼の名前がある。村上本人の回想は正しかったのだ。
※なお、村上にゴルフを勧めた先述の宮田忠也の名は大正7年12月1日時の配置に東洋課々長として名があり。また本社庶務課用度係に関西GUが発行していた雑誌『Golfing』(1936.10-1940.9)の編集長を務める宝塚GCの木皿平太郎の名前があった事に注目したい。
筆者が調査をしたところ、村上は先述の『実業の日本』にあるように慶應を出て直ぐに山下汽船に入った訳ではなかった様だ。
これについては、1910年3月に政治経済学科を卒業した彼の行き先について当時の『慶應義塾学報』や『金融業年鑑』、『官報』を調べると、確かに『慶應義塾学報 155号(1910年6月)』の卒業生の就職先の項に共同火災保険株式会社(正式名称は共同火災海上運送保険株式会社)に就職したことが報じられており(P93)。
同誌163号(1911年2月)OB達の動静の項には『旧臘一年志願兵として広島歩兵第七十一連隊第二中隊に入営(P94)』とあるが。その裏付けとして1912年版の『京浜銀行会社職員録鑑』でも共同火災保険の東京本社に書記として在籍しているものの、兵役で入営中である事が記されている。
※この書は4月26日発行であるが、先述の記述から村上がこの年の5月25日に慶應対一高戦の審判をしたのは除隊後と考えられる。
残っている記録で特に注目したいのは、除隊後の1912年7月28日に実家の村上銀行の経営者変更申請おいて、弟の村上國吉と共に父隆太郎から資産を譲渡されて社員に就任した事(8月6日登記)が官報(同年8月12日付P5)で報じられている事から、それまでに会社を退職し広島に戻ったのだとみられる。(この時の本籍は広島の佐伯郡地御前村の出生地で記録されている。)
1913年時の『日本全国諸会社役員録』掲載の村上銀行の情報を見ると、父の隆太郎が頭取で、長兄の信太郎が副頭取、次兄の定一が営業部長兼五日市支店長、三番目の兄の勉吉は大竹支店長、四番目の義一は大野支店長、村上は貸付主任兼小方出張店主任、弟の國吉も地御前出張店主任。という経営であったので(ほかにも親戚とみられる人物も役職についている)、この為に1915年に発行された『実業大鑑』で『名称の如く実に村上銀行たり』と書かれている。またこの頃には各位配置換えがあり、『日本全国~』によると1915-16年時に村上は貸付主任兼厳島支店長となっており、同店は1914年8月1日開店なのでその時からの就任とみられる
※『廿日市町史 通史編 下』には、おそらく村上家乃至料亭の門前と思われる場所で撮影した行員一同の紋服姿での集合写真が掲載されているが(P264)、中列中央左に座る長兄の信太郎であろう人物の後ろに腕を組んで立っている細面で八の字ひげを薄くはやしている若者が村上に似ているが、広島銀行の『創業百年史』では(P680)では明治42年(1909)頃の撮影としている。後者の年代が正しければこの人物は歳の近い兄の義一であろうか。
村上銀行は横浜正金とも為替コレルス(外国為替の決済代行)契約を結んで海外移住者の送金取り扱いを積極的に行って発展し、1913年12月時には預金82万8千円超、父隆太郎の資産が1916年時で約100万円というから事業は成功を収めていたのだが、大正の初頭から広島で起きた取り付け騒ぎに端を発した金融恐慌に度々悩まされる事となった(得意先であるハワイの日本人新聞にも報じられたという!)。
中にはしょうもない理由に端を発する引き出し拒否デマや閉店デマもあったが、これらトラブルにも信用を落とさず巧く乗り切っていたとはいえ、
(これは主に地元史の情報からであるが、広島銀行の『創業百年史』によると1913年の“広島金融恐慌”で預金の一割に当たる取付けが起き、翌年1月にも取引先の銀行が休業したことによって風聞が立って12月に再度の取り付け騒ぎに遭ったといい。
これらの事から信用を損なって2年間=1913上期~1915上期=の間に預金が88万円から58万円に減少したこと=経営末期の1916年6月時では預金71万4千強、配当率も6.5%に持ち直しているが、貸出金は1913年12月の75万4千円強から46万1千円まで激減している他、利益金も回復していない=や、資金繰りが厳しくなった事が記されている)
頭取である父の隆太郎は、一連の出来事と状況を鑑みて小規模銀行では今後の時節に合わない(発展が見込めない)として廃業を決定し、広島銀行に資産・店舗を譲渡し、1916年9月30日に社員=役員=一同退任。
※ここに就いては広島銀行の『創業百年史』によると、村上銀行と広島銀行との債権及び債務譲渡の話が纏まったのが1916年8月、広島銀行の臨時総会でそれが決議されたのが9月、そして先述したように同月末に業務引継ぎが実行され、
(これにあたって9月10日に総社員=役員=の同意で同月30日に村上銀行各支店の廃止が申請され、10月7日に登記されている)
翌10月1日から村上銀行の各店は広島銀行の支店及び出張所となって開業したことが記されているのと(P203)、村上を含めた社員(役員)一同の退任日は広島銀行との引継ぎが実行された1916年9月30日となっている(P681)。
経営権の方でも同年11月30日に熊本の米穀商毛利昌平・ハツ両人へ譲渡(現地に移転し翌年1月27日=29日登記=から毛利銀行と成る。また同じ在所に肥後米の品質向上に尽力した同名の人物(1856.4/21-1912.2/3)が居たので、彼らは二代目とその母の模様)され、その際に村上も父や兄弟同様に自身の資産を譲渡し退社している。
※なお父親の隆太郎はその後も地元民のための金穀貸付業を続けており、信太郎も地元産業組合の理事を務めるなどしている。
これ等の記録を考えると、村上が山下汽船に勤めていたのは、経営譲渡及び経営権譲渡以降になるか(会計の部署に居たのは銀行時代の実績からであろう)。
そして福井覚治の回想と、“追記での表示なので、以降の可能性が高いが”1916年10月16日付の鳴尾GA会員・ハンディキャップ表の存在を考えると、村上銀行の経営末期(1916年7~9月時)は名義のみの支店長にした状態で神戸に出て、山下汽船に入社していた可能性は有りそうなのだが、この時分は一同引き継ぎの為の各位事務処理に追われている事であろうから、全てが済んだ1916年末から1917年初春頃の間に鳴尾に入会していた。と考えるのが妥当なのかもしれない。
村上の正確な職歴は今後の調査によるが、彼がゴルフを始めた頃に話を戻そう。
鳴尾GAの会員になってゴルフをやってみると、個人ゲームであることが彼の独立独歩かつ、やるならトコトンの精神に合って熱中することとなり、後々復活した横屋(1918頃)、鳴尾の閉鎖に伴い発足した舞子CC(1920秋)、そして鈴木商店社員有志によって再結成された鳴尾GC(1920初夏)に入会し、関西の熱心者の一人となっていく。
この熱中期(もしかしたらゴルフを始めた時期)についての考察であるが、村上は1918年11月23~24日間に鳴尾運動場で行われた全関東対全関西の社会人野球の関西チームのメンバーとして二日目の第二戦に出場している事や、1919年3月3日の全大阪対神戸アスレチックとの試合で後者のメンバーとして出場している事。
そして1918年夏頃に結成された阪神在の慶應OB達による神戸ダイヤモンド倶楽部(KDBC)のキャプテンと成って居る事(村上傳次表記、7月14日の神戸高商との発足試合出場)から鳴尾GA時代は野球も並行して行っていたと鑑みるべきなのだろう。或いはまだゴルフを始めて居なかった可能性もある。
この様に筆者が村上のゴルフキャリア初期の動静に疑問を持ったのと同様に、史家の井上勝純も著書『日本ゴルフ全集7人物評伝編』で、村上が先輩の宮田(文中では同僚表記)からクラブを贈られゴルフを勧められたのを『大正十年(1921)頃のことか(P359)』としているのは、この野球の活動から鑑みた様である。
しかし鳴尾GAのリストの存在と福井覚治の回想を考えると疑問に思えて来るが、リストに追記で名が記されている事と、福井の回想も他の話題で微妙に年時がブレているのが、『何々の記録が正しい』というような断言が出来ない要因でもある。
ただ、1919年の3月16日~10月5日迄のダイヤモンド倶楽部の競技記録を見ると、村上は8月10日の慶応普通部との試合に出て居るのみなので(途中交代の模様)、この年にはゴルフの方に熱意がシフトして行ったと考えるべきだろうか。
晩年の彼の回想によると、自身がプレーヤーとして上達したのは、ハンディ14の頃、仲間内のマッチに勝ちたい事と、そこに賭けられた50銭のベット(当時だと二千~三千円相当で、キャディフィや昼食代より少し高い)は嫌が上でも競争心を煽り、フォームの改善とショットメイク向上の為三ヶ月間コースに出ず、練習のみの特訓(マッシーのコントロールショットを25球以上成功するまで続ける、悪いライから打つ、フェースコントロール等)をした。
そしてこの特訓で自分が得た理論が、終了時に読んだジョージ・ダンカンとエイブ・ミッチェルの『エッセンシャルゴルフ』に書かれている理論と一致している事に自信をつかみ、ハンディは一気に8まで下がり、倶楽部競技に勝って4になった。との事であるが、諸事にタイムラグが生じている。
村上の語っている『Essentials of Golf』はミッチェルの著で1927年発行、ダンカンの本は1921年発行のバーナード・ダーウィンとの共著『Present Day Golf』であるので、村上の回想は、先にダンカンの方を読んで居たとみるべきであり(後述するが、村上は彼を文字通り神様として崇め奉る程傾倒していた)、その事と後年ミッチェルの本が出版された際に読んで得心をしたのが混同したとみられる(何しろ回想時は80歳を越えていたのだから!)。
ただ、そのハンディが下がった速度についても、“そこ迄急速では無かったのでは”という疑問が出てくる。というのも度々触れた、(後から名が追記されている)1916年10月16日付の鳴尾GAメンバー及びハンディキャップリストではハンディが20の次に18が書かれているので、順繰りに上がった模様である。
次に出てくる記録は鳴尾GC時代で、1921~22年間が6、23年に4の倶楽部で二番目、日本人では一番の腕になっている。もう一つの所属倶楽部舞子CCでは1922年秋に7で、倶楽部ではトップの一人であった。
この記録から考えるに、一足飛びの様な上達をしたのは恐らく野球から興味が離れだした1919春~20年頃の鳴尾GA末期及び鳴尾GC新設時代で、この時に先述の14から8へとハンディキャップが大きく下がった。と観るべきであろうか。
その場合『Present Day Golf』発行よりも前なので、彼が理論を得心した年代はこの場合も後年になる。あるいは1920~21年頃の舞子CCでのハンディの変化と鳴尾での変化を混同したか。
これについては上記の年代の鳴尾GA及び舞子CCの会員表乃至ハンディキャップ表が残っていれば判明するであろう。
このハッキリした記録が残って居ない頃の村上の注目すべき話として、1919年初夏に東京GCへコーチとして招聘された。と当時同倶楽部でキャディマスターに在った安田幸吉が井上勝純の聞き書き『わが旅路のフェアウェイ』で回想している。
※摂津茂和も『日本ゴルフ60年史』で、年時については触れていないが同様のことを記載。
当時の東京GCは日本Am勝者の川崎肇や井上信、後の勝者大谷光明、田中善三郎をはじめとするプラスハンディ(川崎)から“5下”レベルの、原著で勉強をし、出勤前退勤後にコースに通うような熱心者達がゴロゴロしていたので、おそらく当時シングルハンディに成ったか成らぬかの村上が呼ばれたのはどういう事か良く判らない。
腕は負けるが理論がしっかりして教えることが上手で在った為か、それともダッファーや初心者連のためのコーチであったか。
村上本人もこの事に触れていないが、雑誌『少年』1910年4月号に掲載された慶応大学卒業直前の彼を含めた野球部員三名のインタビュー記事を見ると、(村上は外出中で記者は面会を出来なかったものの)彼に就いて興味深い事が記されている。
『殊に最も得意なのは地方中學のコーチで、其指導方は最も巧妙で、而かも規則正しく行ると云ふので、好評を得て居る。(P142)』と。
※慶應義塾野球部は毎年夏季休暇中に部員各位が地方の中学(現在の高校)へコーチに出かけていたそうで、村上も現役時代出張していた事が『慶應義塾学報 第144号(1909年7月)』に報じられている。
(また直接ではないが、後年の『カープ30年』内の広島野球史の項に、第一回甲子園広島代表者の話として、同県出身の村上が慶應野球で活躍した事から、同校から広島一中(現広島国泰寺高校)にコーチが来るようになり、それを見たライバルの広島商業も早稲田からコーチを呼ぶようになり、広島の野球発展に一躍買った。という記述にも注目したい)
つまりスポーツの種類は違えども、人に教えるという事を学生時代から行っていたという訳で下地があったのだろうし、同年代の東京GCの会員に老鉄山(旅順要塞の事)の異名を取った一高野球の名二塁手かつ引退後は名審判として知られた中野武二が居た事、そして村上は大学時代彼が審判をした試合に出ている等の面識が在る事から、中野の入会の年代が合って居れば(この頃らしいのだが確証が得られない)、村上は野球繋がりで中野に推挙され招聘されたのかもしれない。
なお、東京GCは1918年に上海GCのプロ、サミュエル・グリーンが一時滞在しており、翌19年夏(或いは20年秋以降)に村上と入れ違いで、英国人プロのスミス某を現地から招聘している。
※なお慶応の同期であった小泉信三の記録を纏めた『小泉信三全集別巻(文芸春秋 1970)』の年譜、大正五年(1916年)の項に『8・18 明治43年政治科卒業の十七人会が、村上傳二の上京を機に末広で開かれ、(後略、P167)』という記述がある。
尤もこの頃は、村上は実家の銀行が広島銀行への資産と店舗の譲渡手続きをしていた頃であり、まだ鳴尾の会員に成る前・成ったばかりの筈なので、東京GCへの招聘ではなく別の用事で上京したと考えるのが妥当であろうか。
とにかくこの頃の村上の熱心ぶりは可也のものであったらしく、鳴尾GCでの友人吉田耕二がKY生の名で『Golf Dom』で連載していたコラム『Short Putt、Long Putt漫談數々(8)』に“大学出でサラリーマンからプロゴルファーになったM君”の名前で村上の逸話が紹介されている(1928年1月号掲載)。
それによれば、全英OP勝者のジョージ・ダンカンに傾倒し、彼のモデルのクラブを探し回っている中、ある晩夕涼みに(神戸の)街を散歩していた所、出会った神戸GC帰りの友人からクラブハウスにダンカンモデルのアイアンが一本あった話を聞いたのにショックを受け、欲しさの余りそのまま浴衣姿で六甲山を登り切ってしまい、クラブハウスが開くまで一晩中コースを歩き回って開錠を待ったが、そのクラブは沢山ある在庫の見本として組み立てていたとの事で、気が抜けてしまった話。
ドライバーのクリーンヒット技術向上のため道にマッチを撒いて打っていたが、丁度その頃殺人犯が収監先の精神病院から逃走した事件があったので、夜道で『棒』を振り回している彼が誤認逮捕された話。(1917年夏の入江三郎事件の様なので鳴尾GA入会間もない頃か)
無神論者であったのに、ある年の大晦日に神棚一式を買ってきて、驚く奥さんを尻目にダンカンの写真をご神体として、お神酒灯明とともに使って居るクラブを供える事をし、以降正月には家族で『ゴルフ大明神』へ祝詞を上げている話等、東京GCの“駒澤雀”達や“神戸の奇才”西村貫一らに負けず劣らずの熱中ぶりである。
しかし、村上はアマチュアからプロに成った最初の人物で在りながら、アマチュア時代の全盛期はゴルフ雑誌が無い~漸く発刊された頃で、雑誌の登場と入れ違いにプロになっており。加えてプロ競技が出来てからは年齢ゆえに活躍出来なかった為かレッスン業務がメインであるが故か、可哀想なことにどの時代も他の面々と比べて余り競技記録が残っていない。という競技ゴルフ史のスポットライトから外れた状態になっている。
アマチュア時代の村上の戦績は上記の事から末期の物しか見つける事が出来ていないものの(恐らく鳴尾GA時代から競技に参加している筈だ)、各種資料の調査をすれば何らかしらの記述は出てくる。
今のところ筆者が確認出来ている一番古い彼に関する競技記録としては、『日本のゴルフ史』に於ける鳴尾の項目に記されている1921年12月11日開催の9ホール開場記念競技に名があるが、試合結果が不明の為に彼の順位は判明していない。以降について同書ではハンディキャップリストと倶楽部対抗戦代表に名がある位ではあるが、『Golf Dom』の記事にはもっと記述がある。しかし鳴尾よりも舞子CCでの記述が多い様だ。
これは舞子が当時の国内ゴルフ倶楽部でもダントツに競技数が多かった事が関係しているのだろう。以下は『日本のゴルフ史』や『阪神ゴルフ』からの記録もあるが、殆どは『Golf Dom』掲載の記事による。
これに就いて記録の羅列の感を強く感じられるであろうが、殆ど語られる事のないアマチュア時代の村上の貴重な戦績なので、判明しているもの全てを記させて頂いた。
1922年4月22日の舞子CC・鳴尾GC対抗戦(於舞子)で村上は舞子の代表として出場し鳴尾でも有数のプレーヤーW・ブッチャーと引き分け。
夏に入った7月16日の神戸GC・舞子CC対抗戦では、シングルスで神戸方のキャプテンG.R・ジャクソンに6&4と快勝、フォアサムでも鳴尾GA時代からの知己久保正介と組んで5&4でこちらも勝ち。
8月下旬には神戸GCとの対抗戦のために遠征してきた東京GCチームを、舞子CCが対抗戦翌日の28日に倶楽部に招待(後述するが舞子は開場以来東京GCへ遠征し、親善マッチを行っていた)して行われた対抗戦では、シングルスで東京GC一番の名手である川崎肇に敗れたものの、フォアサムでは南郷三郎と組んで、川崎と超ロングヒッターで知られたC.G・オズボーン組に勝っているが、これは川崎が急用で途中離脱した為に一人奮戦するオズボーンを二人掛りで倒したと云えようか。
9月10日に鳴尾GCで行われたトゥームストーン方式の西村カップでは、80ストロークで18ホールのグリーンに乗せ優勝。
10月22日の舞子・鳴尾対抗戦の二戦目も舞子代表で出場(勝ちが予想されていたがシングルスでは持病でプレーが巧くいかず引き分け、フォアサムは伊藤長蔵と組んで違う対戦相手らに4&3で勝ち)
11月19日の神戸GC・鳴尾GC対抗戦(於鳴尾)では鳴尾の代表として出場しシングル・フォアサム共に快勝。この時もドライヴとアイアンショットの見事さが『Golf Dom』で報じられており、その1週間後の11月26日の神戸GC・舞子CC対抗戦(於舞子)でも舞子の代表として出場し『舞子随一の闘将』と称され、シングルスでの彼の巧打と、それを冷静に対処するE.H・サマーズとの戦いはこの対抗戦における大混戦として、また最終グリーンでの決着(村上の2ダウン)と、敗れたとはいえ村上の奮戦は敵味方の賞賛の的となった。と報(フォアサムはC・ラングバーグと組んでサマーズらに勝つ)
この他『Golf Dom』1922年11月号(改訂創刊号)掲載の舞子CC市長杯(9/17,24)の記事では、ハンディ七で、“糸を引くがごときドライヴと見事なアイアンショット”をしている事が書かれているが、試合は準決勝で対戦相手の鈴木岩蔵(のち帝人社長)のショットが好調かつハンディキャップをうまく使った事により敗れてしまう。
この時の彼のハンディキャップ7は、当時の舞子では倶楽部発起人の南郷三郎とともにトップであったようだ。
この他の注目すべき記録としては1922年6月初めに甲南GCをプレー中、1番でのティショットが飛んでいた雀にぶつかり、哀れ雀を打ち首にしてしまった話が『阪神ゴルフ』5月25日号に掲載されている。(日時と号のズレに疑問を持たれるやも知れないが、この号の発行が6月25日であり、続く6月号も8月に発行されている)
そして同年7月に行われた鳴尾GCの第二総会の記事に前年度の各クラブ競技勝者が掲載されているが、彼の名前はない。どうも鳴尾・舞子のどちらも倶楽部対抗戦以外は余り競技に出ていないようだ。
なお舞子CCは毎年初夏に東京GCに遠征し対抗戦を行っていたが、村上はサラリーマン故か参加しなかったようであり、さらに当時出場資格が倶楽部ハンディ10以下であった日本Amに出ていたのかどうかも判明していない。
(確認できた範囲では英字新聞に掲載された1921年、22年大会の組み合わせ表や参加者リストには名前が無いが、『Golf Dom』の大会記事とのすり合わせから22年大会に出ている可能性が僅かにある)
興味深いのは、先述の通り村上は対抗戦で舞子と鳴尾の両倶楽部の代表として競技に参加しており、舞子と鳴尾の対抗戦では前者の代表で、鳴尾と舞子以外の倶楽部との対抗戦では鳴尾の代表を務めている。
3:
彼がプロになった経緯であるが、村上本人は1922年に鳴尾GCの倶楽部選手権決勝で前キャプテンの深澤富造に付け入るスキを与えず18ホールで9&8という大差で破り、この時にプロに成ることを考えた。と晩年に回想しているのだが、鳴尾GCのクラブ選手権が始まったのは翌23年からである為、真偽の程を確かめるべく『阪神ゴルフ』や最初期の『Golf Dom』を調べてみたが、『日本のゴルフ史』未記載の各倶楽部競技や1921年度の競技記録と勝者が載って居るものの、倶楽部選手権の記録はなかった。
この回想は村上が会員であったもう一つの倶楽部、舞子CCの倶楽部選手権を述べているのであろうか。ただ、舞子も1926年まで俱楽部選手権は行われず、代わりにそれに相当の競技『オープニングカップ』が行われていたが、この年の優勝者は別の人物であるので(22年に倶楽部選手権が行われたかのような記述があるが、特定はできない)彼が何の競技に優勝したのかは未だ判別がつかない。
村上の言が正しいとして話を勧めるが、彼がプロ転向を考えた当時、倶楽部の先輩連も周囲にプロの成り手が居ない事から、彼にプロに成ることを勧めて来る。
それを受けて、“成るに於いても宣言をすれば良いこと”、“先覚者の福井覚治よりも理論を知っている自負”、“顧客層が総領事・公使・大会社社長夫妻等になること”から食べていけるであろう事を基に三日三晩考え、占い師の『貴方は人を押しのけて出世できる様な人ではないから、プロゴルファーという商売の方が向いている』というアドバイスが後押しとなり『人の世話に成るよりも自分を頼りにした方が生きがいがある』とプロ転向。村上38歳(39歳)の時であったという。
彼がプロになった時期について『日本のゴルフ史』では1923年11月の事。と書かれている。著者の西村貫一は村上と同じ鳴尾の会員であったので、この記述には信が置けるものである。
しかし競技記録を見ると1923年は4月22日の鳴尾・舞子対抗戦では鳴尾代表で参加しているが、8月26日開催の神戸・鳴尾対抗戦の記事に
『~鳴尾方はCaptainたるTrapgley氏及村上傳二の二強將を今春失ひて(後略)(原文ママ『Golf Dom』1923年9月号P26『Inter-Club-Match』 より)』
とあり、加えて全文の登場人物に氏が付いているが彼だけ呼び捨てに成っている事から、この頃にプロに成るかを考え鳴尾を退会したのやもしれない。
※なおTrapgleyはクラブ一番の名手で同年帰国した1911年度日本Am勝者E.G・Fradgleyの誤植とみられる。
また10月28日の舞子・鳴尾対抗戦の際の集合写真に彼も代表選手と共に写っているが、掲載(P420)がされている『日本のゴルフ史』のキャプションではMr.抜きの表記なので、プロになっていた若しくは現在(1930年時)プロなのでMr.は要らない。と著者で写真を撮影した西村貫一は考えたのか。
村上のプロ転向について筆者にはある種の疑問が生じて来る。それは鳴尾の日本人会員の中でトップの腕前であるのに(おそらく舞子も同様)、そう簡単にプロ転向を考え、そして周りも勧めるものなのであろうか。
これは現代のプロゴルフ・プロゴルファーに対する認識に慣れて居るであろう読者諸兄には判り辛い事柄やも知れない。
というのも、1920~25年頃のゴルフ界(主に関西)ではプロ達は当時数人しかおらず、年嵩の者が大半なので芸事の先生のように見られてはいたが、この頃程ヶ谷CCのプロ(キャディマスター)と成っていた六甲キャディ出身の中上数一(1927日本プロ勝者)が晩年語ったように『アマチュアに非ずんばゴルファーに非ず』という風潮もあり、プロの数が増えてからは“雇用者と使用人。”という扱いが戦後しばらく迄普通であった為なのだ。
その様な中、地方名士の家及び大学出身で、日本でもトップクラスの商船会社のサラリーマンとして上手くやれていた(加えて、実家の影響もあったのだろうが鳴尾・舞子・甲南の三俱楽部に入会できる経済力を持った)人間が、安定した地位を投げ打ってプロに転向するという事は当時としては信じがたい部類に入るのだ。
この行動について “彼の気質故に”と云うよりも、村上は鳴尾時代から平時周囲のゴルファーたちに色々教えてあげており、野球時代同様その能力が中々の物である事を皆が知っていて、転向を勧めた。と考察するのが妥当であろうか。
プロ転向後の村上は鳴尾に半所属の形でレッスンをし、夏は六甲上の神戸GCに出張して会員を教えた。(少し後だが)同時代のプロたちによると外国人との付き合いが多かったという話も残っているので、神戸を中心に活動していたのだろう。
※『野球界』1926年6月号掲載の地御前出身の野球選手の紹介記事では=甲南GCの在る魚崎町の西隣の=住吉に住んでいる事と『日本のゴルフスターとして活躍しておられます(P47)』と紹介されており、大正13年版の『慶応義塾塾員名簿』でも住所は同地であり、職業が“山下汽船工業株式会社員”となっているので(P296)、アマチュア時代から住んでいた模様だ。
また、正確な時期は不明だが宮本留吉によると村上は大阪堂島の八階建てのビルの屋上でレッスンをしていた。というが、村上本人が1928年に『Golf Dom』4~5月号に二回に渡って寄稿した『初心の方へ』というラウンドレッスンの実況記事の冒頭に『~最近堂ビル内の清交社に生まれました練習場は~(4月号P20)』と在る事から、宮本が述べているのはこの事だと思われる。
この記事には(大阪)三越のインドア練習場、大阪ゴルフ倶楽部(淡輪の大阪GCとは別物)にも関係していて(筆者は未所持・未読だがカタログ『大阪の三越』の一冊に村上が寄稿したコラムが有るのを確認)、清交社の練習場共々創立時の発会式の席にも参列して、第一にチケットについての注意をしている事を述べている。(そしてエチケットについての問題の解説として自身の経験したラウンドレッスンの内容へと繋がって居る)。
彼は大阪毎日新聞後援の第一回日本プロの参加者の一人として記録されているが、この大会の2週間前6月26日に鳴尾に於いて福井覚治と組んで同地の会員であるハリー・クレーン、R.M・バーリンガル組とプロ対アマチュアマッチを行っている事に注目したい。
試合は36Hマッチであったが、当初小雨であった天候も3番ホール辺りから大雨に転じて皆ずぶ濡れ。グリップが滑るので包帯を巻いたり、着ているシャツを絞ったり。という悪コンディションで、とうとう11番で村上がずぶ濡れによる腹痛を起こしてクラブハウスから気付のブランデーを持ってきて貰うトラブルが発生するなど一同難渋極まる状況でのプレーであった。
(以降村上はショットを待つ間、“クラブのグリップでお腹の痛い所を押さえ痛みを紛らわし”という状態に陥った)
試合の方は、福井は雨の影響を受けない素晴らしいティショットをしたが、得意のアプローチが緊張の為かいつも通りとはいかず、村上も得意のパットがびしょびしょのグリーンでは勝手が違う。アマチュア組もグリップの滑りのミスが2~3有ったが、それ以外は双方乱れのない見事なプレーで拮抗したゲームで18ホールを終えた時点(プロの1ダウン)で延期になったが、バーリンガルが後日熱中症で体調を壊した事により医師からプレー禁止令が出た為か、続きは行われなかった模様。
もう一つ注目すべきことは彼が先述の第一回日本プロで大会を企画した豊川良之助に、『ゆくゆくは自分たちでPGAを興して大会を運営するのだ』と抱負を述べていた。と45年後に豊川本人が雑誌『ゴルフマガジン』で回想している(1971年5月号『ずいひつ』掲載)。
しかしJPGAの発足(1957)と大会を自主運営(1959)するにはこの時から31年以上待たねばならなかった。
当時(1925~29年にかけて)のゴルフ界にはJPGAを創るべきだ。という意見があり、動きもあったのだが、出来上がったのは東西とも同地の連盟・協会に付属する形の物で、統一と独立は上記の1957年まで叶わなかったのだ。
もしJPGAがこの時期に創られていれば、最近『ゴルフペディア』によって漸くひと段落付いてきたJGAとJPGAの日本プロ選手権の起源表記の差は生じなかっただろう。
大会後の村上の動向については従来通りレッスンプロとして活躍しているが、トーナメントではそれ程活躍できなかった。彼は当時折り紙付きのフォームの良さで知られていたが、試合では80~82前後で回っているので、当時(1926~35)のプロ界では中の中レベル。これは他のプロより一周り以上年上~親世代と変わらない年齢の他に、メンタル面がほかのプロ達よりは弱かったという評も関係しているやも知れない。しかし、その一方で理詰めの策士として知られ、後述する東西対抗戦のキャプテンや代表・補欠にも選ばれている。
また、彼が出場した試合の殆どは関西圏内で行われたトーナメントで、1926年の第一回関西OPに参加した事は大会前に大阪毎日に掲載の組み合わせ表で確認できるが、大会では何かあって第一ラウンド以前に棄権をしてしまった模様。
明くる1927年の日本プロ(大阪毎日)では優勝を意気込んでいたが、持病の痔疾(アマチュア時代にも競技時に苦しんでいることをうかがわせる記事がある)で力が入れられず病欠(その前に行われた第一回日本OPも不参であるのはこの為かは不明)。
リベンジとなる1928年大会では会場がホームコースの鳴尾ゆえに奮戦し、残り9Hで二位に立つが、11番でティショットを松の木の傍に打ち込み、狙いに行った2打目を木に当てて7を叩いた所から大崩れをし、六位に終わったのが彼のキャリア最大のチャンスかつ痛恨事であった。(大阪毎日新聞1928年12月11日夕刊)
その後の記録を見ると競技に出て堅実のプレーヤーとして周囲に認知されていたが、残念な事に同じように堅実で知られた越道政吉に比べて見劣りがしている。
彼の戦績でもう一つ注目したいのは、第一回関西プロ選手権参加者(14人)の一人と成っている事である。この大会では無事予選を通過し、一回戦(準々決勝)で舞子の“ケンタン”こと柏木健一に当たる。
『Golf Dom』の大会記事によると、新進気鋭の柏木に村上は敵うべくもない。と見做され、事実押され気味のプレーであったが、村上の地味なプレーに勝ちを焦る柏木はその期を挫かれる形で勝負はもつれ、ドーミーホールである最終グリーンで村上が1クラブ程のパットを外したことによりようやく勝負がついた。という記録が残って居る。
村上は『策士』と称されるだけあって頭脳プレーを得意としたことが幾つかの記事から伺うことができるが、それが功を発したのは1930年の第一回東西プロ対抗戦(JGA主催)のことである。
彼はその前に行われた日本プロ(大阪毎日)では急病で棄権し、この対抗戦もプレーはできなかったが、ノンプレイングキャプテンとして、作戦建てと組み合わせの采配をし、チームを勝利に導いており、10月24日付大阪毎日新聞の七面に彼がカップを持ってチームの面々と映っている写真が掲載されている。
この東西対抗戦には翌31年は補欠、32年は代表として出場し、後者ではシングルスで親子ほど年の違う”日本を代表する“ロングヒッターの岩倉末吉を頭脳プレーで追い詰め、大差でアップドーミーまで追い詰めながら体力切れで残りを全て連取され、エキストラホールで敗れた珍記録が残っている。(先に行われた越道政吉と組んだフォアサムは対戦相手の大爆発と越道の不調を支えるも大差で敗れる)
1927年から始まって居る日本OPには何故か出場することが無く(1929年大会が終わった翌日に会場の茨木CCで行われたプロの“お疲れ会”の招待競技には参加しているが)、JGA主催(第一回)と成った1931年の日本プロ選手権と東西対抗戦出場には(武蔵野CC、六実及び藤ヶ谷コースで開催)上京して参加しているのだが、その前に行われた程ヶ谷CCでのオープンには出ていない。
彼が唯一出場したのが茨木CCで行われた1932年大会で、79・80=159の18位タイで予選通過し、順位を上げて13位タイで終えている。この時彼は48歳間近であり、当時のゴルフ界ではそれ位の歳だと高齢扱い且つ同じフィールドに立っているプロの殆どが二十代半ばから十代後半と20~30歳の離れている者達であったのだから大健闘と云えるだろう。
4:
村上の所属倶楽部については1930年まで鳴尾に在籍していたが、この年に離れて無所属となり、翌31年に宝塚GC(現宝塚CC)に移るが、この年の秋(関西プロ後)には横屋の甲南GCに所属(昭和四年版『慶応義塾塾員名簿』では住吉から更にコースに近い東隣の魚崎町に住居を移していた事が確認できる)。
同倶楽部には1938年7月の阪神大水害で住吉川に発生した土石流の一つがコースに直撃し潰滅した際に、移転先に練習場併設の新コース(開場後『Golfing』1939年9-10月合併号・11月号に掲載された図面から、時間を決めてコース敷地を打ちっぱなし練習場にしていた模様)が出来る迄有馬GC(現三田GC)に在籍していたのを除くと、戦争で1941年に倶楽部が閉鎖するまで在籍していたようである。
1933年に日本スポーツ協会から刊行された『スポーツ人名鑑』には、高級住宅地となる芦屋在住であることが記されている事から経済的に成功していた模様だが、来歴については大学生時代の野球の記録のみ書かれゴルファーとしての記録はなく、そして現在の職業が“ゴルフ場経営者”となっている。
(この書での住所は武庫郡芦屋町表記に成って居るが、当時は武庫郡精道村芦屋であることから通称表記にしたのか。なお昭和十七年版『慶応義塾塾員名簿』でも町目は違うが芦屋市在住と成って居り、その後も住所を変えながらも1960年代前半まで同市に住んでいた模様)
これが翌34年に『Golf Dom』主催の文壇人のゴルフ座談会で作家の久米正雄が語った『塾のボールの村上……。(1月号P26)』の根拠を示す物であろうか(もっとも塾は出身の慶應義塾を指す文言でもあるが)。
また、1934年にポプラ社から出た『スポーツ人国記』の東京の項における慶応野球の有名選手達の紹介に、村上の名もあり『~同じく三壘手村上傳二は、後ゴルフのコーチとなつて、關西地方でその名斯界に高い。(P464)』と記されていることから、彼の名はスポーツ関係者の中ではある程度認知されていた事の証左に成ろうか。
以降の村上の動向については1934年に始まった関西PGA月例会や、同地のオープン・プロ競技各種に出ながらメインのレッスン活動に勤しんでいたのだが、出場していた関西OP・プロの記録は、関西ゴルフ連盟の月刊誌『Golfing』創刊までの史料不足(上位以外省略になっている史料多し)であり、その『Golfing』も腰を据えて詳しく読む機会に中々恵まれない為に、1930年代半ば以降の戦績・活動を完全には確認できなかった。
それ等の中でも確認できた『Golfing』の競技記録を見ると、1937年関西PGA九月例会の記事に村上の入会を承認した記述があり、同誌や『Golf(目黒書店)』掲載の1936年度のプロランキングには村上が月例会やオープン・プロ選手権等の競技会に出た記録が一切ないので、(例外として1936年12月7日に行われた福井覚治に関係するプロ達による彼の七回忌競技には参加している)一時期関西PGAから離脱していたらしい。
この再入会の後は月例会に度々出ており、(1937年11月の有馬GCにおける月例会で3位に入っている)出版統制で『Golfing』が休刊(9月号迄、後廃刊)となる1940年時も参加が確認でき、戦前最後の記録は57歳を超えて居る1942年のシーズンに、古巣の鳴尾GCで行われた5月例会で1ラウンドだけプレーしたのを確認できる。(スコア84、『Golf Dom』1943年4月号P43)
村上は他者への及び他者から自身への不干渉と独行が信条であった事から、当時を知るプロ達からは、外国人ゴルファーとの付き合いの多い一匹狼的存在とみなされていたというが(これが1936年時に関西PGAから離脱していた理由に関係しているやも知れない)、
これについて彼は晩年『人それぞれの生活があるのにどうして口を挟む必要があろう。日本人には聞かれもしない事を教える人が多すぎる。それが日本人の仲間意識みたいに解釈されていた時代に生きたのが残念なんだ(『Golf(報知新聞)』1968年4月号P28 )』と述べていた。
プロ達からの評判は格の如しであったが、アマチュアの間では海外の技術論も原文で理解している理論家の教え上手として、倶楽部後輩の石角武夫(関西OP勝者、後関西PGA会長)と並んで有名な存在であり、慶応の十一年後輩にあたる小寺酉二(トップアマとして活躍し、戦後JGAの理事として協会の再建と発展に貢献。また実業家かつ関西学院教授であった兄の敬一は舞子CCでの村上のクラブメイトだった)は『生真面目でいい個性を持った人であった』と述べている。
また後進の育成としては、友人の息子である古賀春之輔(JPGA殿堂者)をプロにしている他、神戸GCへ出張していた際の話として、1924~32年にかけて茨木CC発起人達の社交倶楽部、サースデイ倶楽部のハウス(現神戸GCチェンバー)の管理人をしていた上堅岩一(日本プロ勝者で宮本留吉の幼馴染)は村上や同じく出張をしていた福井覚治らから訪問の度にゴルフを教わっていた。と1975年に柴田敏郎が『ゴルフマガジン』で連載した『日本プロ・ゴルファー人脈探訪』に出て来る事にも注目したい。(5月号P107)
戦時中の村上の動静については情報を見つける事が出来なかったが、残っているゴルファー達を相手にプロ業を続けていたのか、それとも故郷の地御前に疎開して兄弟たちと実家の農業や林業等何らかしらの事業を行っていたと筆者は考察している。
そして第一次呉空襲(1945.3/19)の際に故郷の地御前も攻撃を受け、実家を含めた周辺十数軒の家屋が被害を受けたのに加え、その一つの家で爆撃によって死傷者が出ている事や、8月6日の原爆の際に地御前からの動員学徒や同地へ避難してきた被災者が多数命を落としている惨状に接し、あるいは耳にした時。アメリカ村と云われる程ハワイ等への移民を多く出した地の生まれで、幼少期から海の向こうの情報を聴いてきた(そして実際にハワイにも遠征した)村上の胸中は如何ばかりであったか。
(僅かな情報のつなぎ合わせだが、兄の勉吉が恐らく村上銀行の廃業後に仕事で中国に渡り、大正後期に広島市の八丁堀で中国物産の商店を経営していた模様なので、=1930年代の同地の商業名鑑に店の情報は出てこなかったが=そのまま爆心地から800m程の同地に在住して居たとしたら。と筆者は気になっている)
戦後は大阪豊中の復活した戦前からの練習場兼ショートコース神崎川ゴルフ場に所属し(なお1951年1月に同地で関西PGAの招待競技が行われたが、村上は67という年齢の為か流石に出ていない)、レッスン活動を続け、80歳頃までクラブを握り、82(83)歳時にお洒落な老プロとして毎日神崎川を始めとした阪神間の各練習場で元気にレッスンをしている事が雑誌『Golf(報知新聞)』1968年4月号で取上げられている。
(記事には大阪の西宮在住であることが書かれているが、これは記事にある長男の昌司郎が横浜ゴムから日商への転職で関西に戻って来た事に合わせて、1960年以降68年までの間に芦屋から引っ越した模様だ)
この記事は本文でも参考資料として使用・引用をさせて頂いたが、長年レッスンプロをしていた彼の信念が伺える言が記されている。
この当時村上は多い月で10万円(今の価値で40~45万円程)を稼いでいる事が記事に在るが、その事について彼は、
“お金の為にこの年まで働いているのではなく、プロゴルファーと云う職業を選んだ以上お客の要求があれば教えてあげるのが当たり前なのです。”と語り、続けてレッスンプロとしての長生きすることについて、
『まず人を教える時は、ひと振り見たとき、どこが悪いかを自分のカンで見分ける。そして悪い個所を三つも四つも直すのでなく、一番のウィーク・ポイントをその人のからだに合わせて直す。カンというものは自分自身の経験によるしかない。そのために内外をとわずレッスン書は人一倍読んだつもりです。(上記P29)』と述べている。
彼は取材の終わりに『自分のスウィングを改善しようとする努力がない。本当にうまくなろうと思うなら6か月間ぐらい練習場だけですごす気持ちが欲しい。コースに出たがり、カケをするからひねくれたスウィングになり、プレーの態度がいやらしくなる。ゴルフはひとたびコースへ出たらもっともっと楽しんでやらなければならないのですよ。(上記同ページ)』
と述べているが、現役時代猛練習をしていた事やフォームの良さで知られた彼の心からの言葉だろう。
村上は、『あと50年遅く生まれればもっと思い切ったことがやれたのに』と思う事が有る。と述べながらも、彼は自分の思うままに野球とゴルフの人生をやり遂げた彼の名は、初期の野球史とゴルフ・プロゴルフ史の両方で名を残した人物の一人として顕彰をされるべきだろう
—了―
2020年9月19日記
2023年5月31日補訂
2024年7月13日、9月8日加筆
2025年1月13日―2月22日加筆編集
・村上の所属倶楽部
鳴尾GC1923初夏~1930前、無所属1930間、宝塚CC1931、甲南GC1931冬?~1941?(閉鎖まで?)、有馬GC1938-39(甲南GC被災閉鎖・移転期間)、大阪ゴルフ倶楽部(大阪三越内練習場)1920年代末~1937以降?、清交社練習場1929頃~?
・村上の戦績
日本OP13位1932、
日本プロ(毎日新聞後援主催)5位1926、6位T1928。(JGA主催)Cut1931
関西プロQuf(一回戦)1931、
関西OP11位T 1931
東西プロ対抗戦西軍1930(ノンプレイングキャプテン)、31(補欠)、32
関西PGA秋季大会9位T1935
~主な参考資料~
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松社 1995復刻第二版
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン 1977
・ゴルフに生きる 安田幸吉 ヤスダゴルフ製作所 1991
・ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録 (新装版) ベースボールマガジン 1986
・佐藤昌が見た世界ゴルフコース発展史 佐藤昌 2001
・ゴルファーの夢 佐藤昌 1994
・ゴルフ日本のテクニック 浜伸吾編集 ベースボールマガジン 1985
・ゴルフその神秘な起源 井上純勝 三集出版 1992
・公益法人一覧昭和7年1月 文部大臣官房体育課 文部省社会教育局編集
・スポーツ人名鑑 日本スポーツ協会 1933
・スポーツ人国記 弓館小鰐 ポプラ社 1934
・慶応義塾野球部史 慶応義塾体育会野球部史編纂委員会 編 慶応義塾体育会野球部1960
・慶応義塾塾員名簿 大正13年版 慶應義塾編集発行 1924
・慶応義塾塾員名簿 昭和4年版 慶應義塾編集発行 1929
・慶応義塾塾員名簿 昭和17年版 慶應義塾編集発行 1942
・海運うら外史第一巻 八木憲爾 潮流社 1986
・小泉信三全集別巻 文芸春秋 1970
・広島県下役員録 佐古豊次郎 編 広島独立通信社 1908
・広島県下役員録 明治44年10月現在 増田直吉 編 広文館 1912
・広島県人物評伝 藤木潺渓編 広島通信社1925
・廿日市町史 通史編 下 廿日市町 1988
・廿日市町史 資料編 4 (近代現代 上) 廿日市町 1981
・廿日市町史 資料編 5 (近代現代 下) 廿日市町 1983
・創業百年史 広島銀行創業百年史編纂事務局 編 広島銀行 1979
・ハワイ出稼人名簿始末記 : 日系移民の百年 山崎俊一 日本放送協会出版社 1985
・人事興信録第三版 人事興信所1911
・人事興信録第四版 人事興信所1915
・九州紳士録 (第二版) 上野雅生 編 九州集報社1916
・征清武功鑑 一名金鵄勲章伝 第五巻九編 杉本勝二郎 編 国乃礎発行社 1895
・帝国在郷軍人会模範分会史 帝国在郷軍人会宮寺村分会 編集発行 1927
・大日本長者名鑑 貞文舍 1927
・全国貴族院多額納税者議員互選人名総覧 銀行信託通信社出版部 1932
・『慶応義塾学報』
第155号(1910年6月)
第163号(1911年2月)
・京浜銀行会社職員録 明治45年度 水下恭一 興業通信社 1912
・『実業大鑑』 稲臣等・山本為治 編 帝国実業協会及び関西活版所 1915
・『国民年鑑 大正八年』國民新聞社編集 渡邊爲藏
・日本会社銀行録 虎の巻 国之礎社 1900
・『全国銀行決算報告 明治43年上半期』出版社編集部 出版社 1910
・日本全国諸会社役員録 明治32年 商業興信所 編集発行 1899
・日本全国諸会社役員録 明治33年 商業興信所 編集発行 1900
・日本全国諸会社役員録 明治41年 商業興信所 編集発行 1908
・日本全国諸会社役員録 明治42年 商業興信所 編集発行 1909
・日本全国諸会社役員録 第21回 商業興信所 編集発行 1913
・日本全国諸会社役員録 第23回(2/2)商業興信所 編集発行 1915
・日本全国諸会社役員録 第24回 商業興信所 編集発行 1916
・『運動世界』
1910年拡大号(5月号)P44-45『本年卒業の運動界名士』
・『少年』
1910年4月号P138-143 多和田菱仙 『ベースボール雑話』
・『野球界』
1919年1月号 P52~失念 支部同人各記『壮絶を極めたる東西対抗野球戦』
1919年2月号付録 『大正八年度運動年鑑』より『野球界 総評』
1919年4月号P35-失念 神戸 KM生 『全大阪対神戸アスレチック 関西両雄の会戦 松田投手の肩乱れ六対一神軍敗れる』
1919年5月号 P52-54 潮風記 『早慶對一高戰史』
1919年7月号P25-26(神戸)野球狂生 『神戸D,B,C,野球団』
1919年12月号P120-122 K,D,B,C,監督井上修一 『神戸ダイヤモンド野球団 春より秋までの戦績』
1926年6月号P47 GM生 『野球名選手を出した我が村の誇り』
1931年7月号 P150-165『慶応軍の新主将 梶上初一論』より P162 地御前生『慶應梶上主将を産みし郷土は』
1937年2月号P86-90 藤井猪勢治『慶應灰山選手家庭訪問記』
・『実業の日本』
1920年6月号P61-64 三田台上人『実業界を中心とした名選手の行へ』
・『大阪毎日新聞』
1926年7月2日『我国最初の試みゴルフの大争覇戦』、7月5日『全日本ゴルフ争覇戦』
1927年7月8日『選手権は何に?豫測されぬ大試合』
1928年12月1日朝刊『全日本プロフェッショナルゴルフ大會 鳴尾リンクスの盛観』
同夕刊『本社主催全日本プロフェッショナルゴルフ大會 淺見の優勝に歸す』
1930年10月19日『本社主催全日本プロフェッショナルゴルフ大會第一日 地の利を得て村木リードをとる』、『本社主催全日本プロフェッショナルゴルフ大會(第一日夕刊續)午後も村木が好調』
1930年10月20日『本社主催第五回全日本プロフェッショナルゴルフ大會(第二日)終始ステデイーに村木壓倒的に優勝』
1930年10月23日『関東まづ優勢 東西對抗のプロ・ゴルフ』
1930年10月24日『関西優勝7-2東西對抗プロ・ゴルフ』
・『東京日日新聞』
1908年6月29日朝刊三面『本日遠征に就くべき三田の健兒』
1908年7月13日朝刊三面『慶応野球団大勝(十一日布哇特電)』
1908年8月4日朝刊七面『慶応野球団大勝(布哇ホノルゝ三日特電)
1908年8月11日朝刊七面『野球審判の紛紜 万国野球戦対慶應試合』
1908年8月13日朝刊六面 村上伝二『布哇野球通信(下) 在ホノルゝ』
1908年8月20日朝刊七面 村上伝二『布哇野球通信 八月七日ホノルゝにて』
1908年9月10日朝刊七面 村上伝二『布哇野球通信 八月廿日ヒロ市にて』
1908年9月11日朝刊七面 村上伝二『布哇野球通信 八月廿四日在ホノルゝ』
1908年9月12日朝刊七面『遠征慶應選手物語 昨朝無事帰国』
・『大阪朝日新聞』
1930年10月21日朝刊五面『プロフェッショナル東西対抗ゴルフ』
・『阪神ゴルフ』1922年4/25・5/25・6・9月号
5月25日号P8『Mr. Murakami Shot a Sparrow.』
9月号P6『Maiko Country ClubノTokyo Team招待』
・『Golf Dom』
1922年11月号P4-5『Mayor’s Cup at Maiko Country Club』P15-17『Club Reports』
1922年12月号P12-15『Inter Club Match』
1923年9月号P26『Inter-Club-Match』
1923年12月号 『横屋日記』※甲南GC来場者達が意見や感想を記帳したノートの記事
1926年7月号P13-15『関西Professional Golf争覇戦』
同号P25-26 『鳴尾通信』より『Amateur V. Professhional June 26th. 36 holes match』
1927年7月号P8-10ケーワイ生(吉田耕二)『Long Putt, Short Putt漫談数々(4)』より『Professionalの現在と将来』、同号P20-22『全日本Professional Golf大会』
1928年1月号P18-20ケーワイ生(吉田耕二)『Long Putt, Short Putt漫談数々(8)』より『Golf狂の新年』
1928年4月号P20-24 村上伝二『初心の方へ』
1928年5-6月合併号P44-47村上伝二『初心の方へ(2)』
同号P47-48 Y.N.(中上川勇五郎?)『ルールス』※(『初心の方へ』掲載のルール解説の誤りの訂正と解説)
1928年9月号P17『関西Open Championship Tournament―茨木の宮本優勝す―』
1928年10~12月合併号P22『大阪毎日新聞主催 プロフエッショナル トーナメント』
1929年5月号P18-20『関西オープン チヤンピオンシツプ―鳴尾の森岡優勝す―』
1929年6-7月合併号P47『各地ニュース』から茨木『Pro. Consolation Competition』
1930年11月号P34『各地ニュース』より 宝塚『大毎主催 第五回全日本プロフエツショナル ゴルフ大會』
1931年11月号P43-48N. U.生『関西プロフエツショナルゴルフアソシエーシヨン』
1931年12月号P36-37『第二回プロフエッショナル關東關西對抗試合』
1932年11月号P25-30 『プロフエショナル東西対抗戦』
1943年4月号P43 関西職業ゴルファーズ協会『昭和十七年度関西専門選手成績順位表』
・『Golf(目黒書店)』
1932年11月号P16-24 近藤経一『茨木観戦記 全日本オープンの印象』』
・『日本ゴルファー』
1935年12月号 P24-25『関西PGA秋季大会』
・『Golfing』
1937年1月号P58『故福井覚治氏七回忌追善競技』
1937年10月号P49『関西P.G.A.秋季大会 於猪名川コース』及び『九月月例会 於廣野コース』
1938年1月号P69『昭和十二年度関西P.G.A.ランキング』
1938年9月号P22-31『プロに訊く座談会』
1940年1月号?P22『昭和十四年度関西P.G.A.ランキング』
・『Golf(報知新聞)』
1954年4月号『ゴルフ鼎談 日本ゴルフの創生期』
1968年4月号『レッスン一筋に44年82歳のプロ・村上伝二さん』
・『ゴルフマガジン』
1971年5月号 『ずいひつ』より 豊川良之助『「大毎東日杯」の思い出』
・『アサヒゴルフ(月刊)』
1979年8月号 宮本留吉『ゴルフ夜話73 サンドグリーンの郷愁』
・『官報』
1890年5月2日P15(3)
1901年10月25日P518(30)
1907年04月20日P626(34)
1907年04月22日P665(33)
1912年8月12日 P5
1912年8月17日 P308(20)
1916年10月20日P435(21)
1916年12月8日 P219(19)
1917年02月12日P274(26)
1923年1月12日P174(22)
1924年08月26日P3
※以上史料はJGA資料室および同ミュージアム、国立国会図書館、筆者蔵書より調査・閲覧
・ History鳴尾の歴史 『1904-19 鳴尾の源流』より『鳴尾ゴルフ・アソシエーションに集った関西ゴルフの草分けたち』
※以上鳴尾ゴルフ倶楽部ホームページより閲覧
・地御前ものがたり 編地御前郷土文化保存事業 地御前自治会 平成28年第二版 2016
※以上廿日市市ホームページよりPDF版を閲覧
・にほしま第25号 『移民の風景 広島県佐伯郡』2021年2月 ハワイ移民資料館仁保島村
※以上ハワイ移民資料館仁保島村ホームページより閲覧
(この記事の文責と著作権は松村信吾に所属します。)